2009年12月26日土曜日

スカ沙弥物語の出典について

スカ沙弥物語の出典についての質問

協会ホームページ巻頭法話62の中にあるものですがどの経典に書いてあるものか教えてほしいとの質問がありましたのでお答えします。

ダンマパダ註釈書第2巻、55ページ(ビルマ第六結集版)


この話の中のスカ沙弥になる前世でバーラナシーで樵をやって生計を立てていました。ある日街に出てきたときガンダ長者が食事をするのを見て同じものを食べたくなり、同じ食事を食べるために三年間ガンダ長者のもとで働きました。三年間しっかり働いた褒美にガンダ長者と同じ食べ物をやっと食べれることになりました。

その時、ちょうど滅尽定から出たばかりの独覚仏が彼のもとに托鉢に来ました。
独覚仏が托鉢に来た時、彼は自分が三年間働かないと食べれない境遇に生まれたのは過去においてお布施の功徳を積んでいなかったからだと考え、自分が食べたいという欲を取り除き三年間苦労してえた全ての食事を「生まれるたびに食べ物に困ることなく将来、尊者が得た智慧を自分も得ることができますように」と誓願して独覚仏にお布施しました。

その話を聞いたガンダ長者は自分も彼の得た功徳を分けてほしいと彼に自分の財産の半分を与えました。同じく話を聞いた王も自分も功徳を得たいと彼に財産を与え樵はバッタバーティカ長者と呼ばれるようになりました。

その生から生まれるたびに天界、人間界での幸せを享受し釈尊が在世中にサーリプッタ尊者の信者の家に生まれ7歳で出家して直ぐに阿羅漢果を得ました。

直ぐに悟るような人は過去において色々な功徳を積んできたという有難いお話です。


話はおもいっきり変わりますが

先日、広瀬さんに車を出していただき正田さん上田さんと一緒に伊勢神宮を案内していただきました。
ありがとうございます。

2009年12月17日木曜日

新興宗教の教祖の称号と功徳

日本の新興宗教団体がテーラワーダ仏教国のお寺から仏舎利を贈られたり、名誉称号を贈られたりしていますが、これはどのように理解したらよろしいのでしょうか?


テーラワーダの国のお坊さんはお布施してくれる人は熱心な仏教徒だと思っているのではないですか。

いっぱいお布施すればお布施した功徳で何か称号みたいなものをあげているのでしょう。


知る限り法華経や般若経を信仰していたり、超能力開発を目的としていたり、現世利益を謳っている団体ですが、テーラワーダの教えからすると邪見にはならないのでしょうか?

その教団の詳しいことは知りませんが、その教えに業論、善因楽果、悪因苦果の教えがあればまだましですが、厳密に言えばテーラワーダ仏教からみると邪見ですね。




そういう新興宗教や信者さんが繁栄しているのを見聞きすると「善因善果の因果法則のお陰だろう」と推測し、正しい仏教の教えなのではと思ってしまい、そちらに入会してみたくなります。どのように解釈すればよいのか教えてください。

その教えが正しくなくても過去の善業が今生で結果を得ていれば成功する場合もあります。
本人の努力や経営的なセンス、世界の経済状況など色々な要素を考えないといけませんので業一つだけで成功するわけではありません。

現在、経済的に成功している人が信じているからといってその教えが正しいとは限りません。

正しい教えを実践しても今生で経済的に成功しないかもしれませんが、今生の善業は未来の生で良い結果を受けられる縁となると思います。






この世で生きるにはお金はもちろんないよりあったほうがいいですし、多くの人がそう思って、家族や自分のために忍耐して一生懸命働いたり、智慧を使ってビジネスで増やそうとしていますが、仏教では修行者にはお金への欲・執着、物への欲・執着を捨てなさいと教えているんですよね。



そうです。


功徳も、この世で生きるにはないよりあったほうがいいし、徳の高い方は尊敬され願望も叶いやすいと聞きます。


そのとおりです。


金が欲しい、金が欲しい」は欲望だと分かりやすいですが、「徳が欲しい、徳が欲しい」は欲望にはならないのでしょうか?
もし徳を積む時に、単に「善いことだからしよう、困っているから助けよう」という気持ちではなく、「願望成就のために、利益のために、名誉のために、功徳が欲しい!もっと欲しい!」と思って徳を積もうとするのも善因善果になるのでしょうか?

功徳を積む瞬間は善心が生じていますので欲望ではなく良い意欲といいます。

その善心の前後に称号や名誉などが欲しい心は貪欲ですが、お布施する瞬間の心は善心、功徳です。
功徳を積むたびに、「この功徳が涅槃を得る縁となりますように」と願がうのが一番です。

この功徳で大金持ちになりますようにだと欲が含まれて問題ですけれども、何も徳を積まないよりはましです。

できれば豊かになったときのその経済力を使って社会や人々の幸せのために使いたいと願えばいいでしょう。

ただ経済的な成功など願わなくても仏教徒として当然のことだと思って「この功徳が涅槃を得る縁となりますように」と願えば、お布施の功徳などの法則で自然と豊かになると思います。




お坊さんと頻繁に会える、一緒にどこかに行ける方、というのはやはり徳が高いからでしょうか?

吉祥経にお坊さんと会えるのか吉祥だとあります。

依存的な心が強くなければ良いことだと思います。


何かをする時に、経済的な費用の捻出が難しい人は徳がない人と考えて間違いないでしょうか?

経済的な力と精神的な徳のあるなしは一緒にすべきではありません。

貧乏でも精神的な徳の高い人はいますし、金を持っていても精神的な徳のない人はいます。

経済的な業の良さという意味では功徳が多いといえるでしょう。



そうなのですか?例えばどなたでしょうか?

お釈迦様の弟子で過去生で阿羅漢に対して行った悪業で本人が阿羅漢になっても托鉢でお布施をもらえず苦労した仏弟子がいます。

死ぬ間際にサーリプッタ尊者がバターと蜂蜜などを混ぜた薬をお腹いっぱい食べさせてあげただけで生まれて一度も満足に食べることができなかったそうです。

この阿羅漢は過去の悪業によって現世で一生の間、貧乏です。




大変失礼な質問になってしまうかもしれないのですが、テーラワーダ仏教の国は日本や西欧等と比較して経済的には豊かだとは言えない状況だと思うのですが、なぜですか?
タイでは貧しい人(ホームレスや孤児)は過去生における悪行為の結果なので仕方ないという理由で、だいたいの人があまり気にもしないし助けないそうです。
これも因果法則の結果だからしょうがないんでしょうか。


人間以上の世界に生まれるのは善業の結果です。貧乏な家に生まれるのは過去の悪業の影響ですが貧困が存在すのは現実の社会システムの問題でもあります。

貧しい人を悪業の結果だからほっとくというのは別問題ですし、国や豊かな人ができる限り助ける必要があると思います。

今生の努力などで貧乏な生まれでもお金持ちになるのは、業も関係しますが今生での努力や智慧、その時の経済状況も関係すると思います。


そしてミャンマーもどうして経済的貧困が続いているのでしょうか?とても信仰が篤く優しく親切な方が多い(半分想像)のに。
そして仏教国の誇りを持ちながらもどうしてミャンマーの方々は日本やアメリカやヨーロッパ等先進国(豊かな国)に行きたがる・住みたがるのでしょうか?



ミャンマーはイギリス、日本の植民地から独立した後、約10年ほど民主主義でしたがその後はずっと軍事政権です。

貧困の原因はビルマ式社会主義や軍事政権の経済運営の失敗などの政治的な要因も大きいです。

マハーシ長老の法話でその話が出てきました。

お布施の功徳があってもミャンマーに生まれ変わってくるにふさわしい豊かな家が少ない。

生きているときに先進国に経済的にあこがれているのでその憧れの心の力で先進国に生まれる。

私の考えですが天界に生まれてる人が多いのではないでしょうか。

ミャンマーの国が自由で経済的に豊かな国なら殆どの人は態々外国に出稼ぎしたり移民はしないでしょう。
日本も戦後しばらくは新天地を求めて外国に移民してた歴史があります。



ダンマから離れた国に生まれるのは不幸なことだと聞きましたが、日本に生まれたということは善行為の結果なのでしょうか?悪行為の結果なのでしょうか?

現在日本にはテーラワーダ仏教の教えがありますし、戦争をしている国や食べ物に困るような国と比べたら格段に良い所に生まれていると思います。

繰り返しになりますが人間以上の世界に生まれるのは善業の結果です。悪業の結果で生まれ変わると地獄、畜生、餓鬼、阿修羅の世界に生まれ変わります。





過去生で何かお布施や波羅蜜を積んだ結果なのでしょうか?
少しは自信を持ってもいいのでしょうか。


人間に生まれて仏教に出会い、瞑想や仏教の勉強をしてみようという信がある人は自信を持っていいでしょう。

現在日本に生きているというのは事実ですから、智慧を持って努力するだけだと思います。

幸せでありますように。

2009年12月15日火曜日

読経やお経を聞くことの功徳について

意味が分からなくてもパーリ語の読経をすることに功徳があるというお話や、パーリ語日常経典でも「聞くだけでも幸福を獲得します」と書かれていてす。
読経やお経を聞くことの功徳について教えてください。






業の話にも関係しますが善心が生じれば楽の結果を受けるので功徳があると言えます。

仏教徒がパーリ語のお経を有難いと思って聞けば善心が生じる可能性が高いと思いますので、ただ聞いただけでも功徳があるといえます。

伝統的には
正しいパーリ語の発音で意味をしっかり理解したうえで心をこめてお経を唱える。
聞く人も意味を理解したうえで敬虔に聞くと大きな功徳があると言われています。


ですからミャンマーやタイではパーリ語を在家の人に唱えさせるときはその国の言語でも唱えさせます。
日本語だけでも三帰依、五戒を唱えても何の問題もありません。

ただテーラワーダ仏教はパーリ語で伝えらてきているのでパーリ語を重視して唱る伝統です。


現在のパーリ語の正しい発音というのがお釈迦様の時の発音と同じかとは仏教文献学者などの意見は色々とありますが、それぞれのテーラワーダの国の正しい発音で唱えれば正しいと解釈するのが無難だと思います。




註釈書の中に真実語を唱えると力があるという話が多く出てきます。

インド文化では普通の概念だと思いますがマントラに力があるというの原因にもなっているのかもしれません。

マントラは意味が分からなくても有難がってとなえますが、この真実語の概念は良いことでも悪いことでもその言葉が正しければ力があるというように信じられています。

ある人が毒蛇にかまれて死にしそうになっていた時、その関係者が色々な真実語を唱えます。
例えば私は結婚してから主人の事をずっと好きではなかった。
バラモンが唱えたのは、私が出家してから長い間出家生活を楽しんでいなかった。

別な話ではもの心ついて以来、故意に殺生したことがない。
その真実語を唱えると病気が治ったりする話があります。


五戒文を唱えることも功徳はありますが、守るために唱えているのが本来の目的です。
慈経もどのように実践するか説かれたお経ですから慈の心をおこさないと本来の意味から離れると思います。

薬の名前や効能書きを唱えても実際に飲まないと薬の効果はありません。

ミャンマーのモウゴッサヤドーの話の中で普通の人々は飲み薬を飲まずに塗るようなことをしていると説法しています。

功徳があるかないかと考えるより、その時の心が善心か不善心かと考えれば分かりやすいと思います。

幸せでありますように。

2009年12月11日金曜日

扉のお布施


本堂トイレの入り口の扉を会員の関さんにお布施していただきました。
ありがとうございます。

2009年12月5日土曜日

お布施とは⑤

渇愛の三段階

渇愛とは
① 随眠渇愛
② 纏渇愛
③ 犯罪渇愛の三種あります。

随眠渇愛とは衆生の蘊の相続に常に潜んでいるといわれている渇愛です。

随眠渇愛は生住滅というようにはっきりと生じるものではありません。

マッチの先の火薬に火が生じる力が潜んでいるように、潜んでいるのさえ分からないようにある渇愛です。

纏渇愛とは所縁と触れることにより蘊の相続の中に生起する渇愛の種類です。

マッチを擦って火がついた状態です。


  犯罪渇愛とは蘊の相続に生じた渇愛を抑えることができず実際に言葉、身体の行為によって悪行をなすような渇愛です。

マッチの火がついて持っているマッチ棒が燃えた上に他の場所をも焼くようなものです。

この三種の渇愛の中で随眠という渇愛は生住滅としてはっきり存在する渇愛ではありません。

はっきり生じていない渇愛なので随眠渇愛は地獄、畜生、餓鬼、阿修羅という悪趣に直接落とす働きはありません。

しかし、随眠渇愛があれば纏渇愛や犯罪渇愛の原因となり機会があればそれらを生じる可能性があります。

それらが生じると大変です。

それらが地獄まで落とす力を持っていますから。




続く

2009年11月26日木曜日

業についての質問

業一つだけが原因でないなら他に何を原因として人生の様々な違いが生まれるのでしょうか?
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


いろいろな原因が重なって一つの結果が生じると言いたいだけで業など関係ないと言っている訳ではありません。
ミャンマーに「自分の善業を信じて毒蛇のいる薮に入るな」という言葉があります。
ヘビースモーカーでも癌になるならないは業果によるからと信じてタバコを吸って癌になったらこれも業果だと思えますか?
もちろん中にはどんなに吸っても癌にならない人もいますが、確率を考えるとリスクが高すぎます。
ここで癌になった原因がタバコ、過去の業、仕事のストレスまた食品添加物や車の排気ガスなど考えることができ過去の業のみが原因だと思うのはどうかと言っているのです。
業と考えるよりタバコが最も大きな原因と考えるのが普通です。

ギャンブルで全財産を無くした人がこれも業果だと言っていたらどう思いますか?
ギャンブルが原因でしょう。

少しアビダンマを勉強したことがある人は今生で行った行為が直ぐに結果を与える現法受業ではないかと思うかもしれません。
この業を拡大解釈するとそれこそ何でも業だけの結果になります。

現法受業の直接原因としては教典にある例は貧乏な人が心の働きが止まる滅定からで出たばかりの阿羅漢にお布施したらお金持ちになった。
阿羅漢の比丘尼を強姦したら地面に飲み込まれたなど特別な場合だけです。

普通の今生で行う行為(業)の今生での結果(異熟)は過去生の業を支持したり、妨害したり、殺害(消す)する、更に将来の生で色々な結果を与える働きをします。

業果だからしかたないと受け身にならず、積極的に善業を積んでいけばたとえ悪業があったとしてもその悪業を妨害し、過去の善業を支持する働きが生じればより良い人生が送れると思います。
細かい業とその結果を理解出来るのはお釈迦様だけだと言われています。
ですからこの程度で納得するしか無いと思います。



例えば、飛行機に乗っていた方は社会の一般的通念からすれば不幸な出来事にあったことになり、そのご家族にとっても不幸な出来事で苦を感じるはずですよね。
自殺する方もまたしかりです。
逆に、幸福や楽を感じる人達も、その原因すべてが過去の自分の業に起因しているわけではないのでしょうか?
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


色々な眼、耳、鼻、舌、身の対象を認識するときの心の流れ(路)の中の異熟心は過去の業による結果です。
何かきれいなものを見た時の瞬間の心は過去の業による結果である心ですから「過去の自分の業に起因している」のとおりですが、その見えたものは自分の業で出来たものではありません。(天界なら別ですが)



邪見から来る屁理屈かもしれませんが、お釈迦様はすべてのものが無常・苦・無我だとおっしゃったということは、業もまた無常で無我だったりするのでしょうか?
なのでひょっとして、「私の業」などというものは存在しないとか…。
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


業も法則に従って働いているだけで無常です。しかし法則(法)は無我であって無常でありません。
熱湯に長く手を突っ込んだら無常だから時々火傷して、時々火傷しない訳ではありません。

「私の業」は「私」は勝義諦では存在しませんが「業」は存在します。

12月12日大分の勉強会、19日の東京アビダンマ講座は業の話しになりますので興味のある方はご参加ください。

2009年11月24日火曜日

自殺などの質問

1)死ぬ間際の「心」の状態が、次の「心」を作って、その「心」が自分にあった「物質」(六道のいずれかの生命)を作る、という考えは正しいでしょうか?
(仙台のYさん)




死ぬ間際の心の流れの中の速行心が過去、現在の善、不善の業を所縁として生じます。

例えば臨終速行に過去の殺生を所縁として不善心が生じれば不善異熟心によって地獄、畜生、餓鬼、阿修羅のどれかの世界に結生します。

同じく布施、持戒、瞑想などを所縁とすれば善心が生じ善異熟心によって人、天などの善趣に結生します。

質問の「次の心」とは結生心(その生の中で一番最初に生じる心、有分心)だと思いますが、それが自分にあった体を作るという表現は間違いとは言えませんが、過去の善、不善の業によって心の小刹那ごとに業生色(業によって生じる物質)を生じさせるが正しいと思います。

結生心それ自体は心生色は生じさせません。その次の心からすべての生位の刹那に心起因色(心生色)を生じさせます。

業によって犬に生まれ変わったならば犬の生の中でいきなり猫にならないのは業による色によるものです。

アビダンマでは業、心、食(滋養素)、時節などが物質をつくると言えます。

DNAの例えはあまり正確ではないので削除しました。




2)自殺したならば、来世は地獄に行くのでしょうか?
(仙台のYさん)


よほど修行した人や聖者でない限り善趣に転生するのは難しいでしょう。必ず地獄に行くとは言えませんが。常識的に考えて自殺する人の自殺する前の精神状態が良いとは思えないので臨終速行心が不善心になる可能性が高く、そうなれば必ず悪趣に落ちます。





3)自殺するという行為も、今まで(過去世、現世)の「業果」でしょうか?
 それとも現世だけの業果ですか?
(仙台のYさん)

仏教ではすべての原因が業一つだけだと考えるのは邪見に入ります。
寿命を全うせず途中で亡くなるという業があったとしても今生での選択で自殺しないかもしれません。

たとえ乗っていた飛行機が落ちて死んだとしても業一つだけが原因ではありません。


2009年11月23日月曜日

註釈・復註釈書が作られた場所

アビダンマッタサンガハの勉強会を行っていますがこのテキストはセイロン(スリランカ)で書かれたもので著者はアヌルッダ長老です。

そのアビダンマッタサンガハを解説している復注釈書アビダンマッタウィバーワニーは同じくセイロン(スリランカ)のスマンガラ長老が書いたものです。

ビルマがイギリスの植民地時代の前後にレーディーサヤドー(ウ・ニャーナ)という学問や瞑想実践共に有名な長老がアビダンマッタウィバーワニーに間違いが多く使えないテキストだとパラマッタディーパニー復注釈書を書き批判したときから30年近く保守的なビルマの大長老と議論が続き、結果は保守派の意見に従い大切なテキストとして仏教の国家試験の中級までの範囲に含まれるほどになっています。

ビルマで書かれたマニサーラマンジューサーという註釈書もありますが、アビダンマにおいては特に先にあげたセイロン作の二つのテキストが重要視されています。

ブッダゴーサ大長老はインド出身だと云われていますが、皆さんご存知のとおり大寺においてシンハラ語で書かれた注釈書をパーリ語に翻訳、編纂した方です。

詳しくは学者のいろいろな研究を参考にするといいと思いますので図書館などで読まれたらいかがでしょうか。
その一つに



アビダンマッタサンガハやその註釈の記述に現代の科学的知識からみておかしいものが出てくるとビルマ人の長老が勝手に註釈していると思うのは勝手ですが根拠がない批判のような気がします。

ウ・ウェープッラ長老と戸田忠先生が訳註したテキストにはp.310より註釈文献が記述してありますのでそれで自分でご確認ください。

幸せでありますように。


2009年11月16日月曜日

非我と無我の違いとは

非我と無我の違いをパーリ仏教文献学者がどう考えているか別として考えてみたいと思います。

まず非にしたい学者の気持ちは分かりませんが永遠不滅の我というものはないがそれ以外の我があると言いたいのかもしれません。

無我ですと例外なしに我はないという意味になると思います。

テーラワーダ仏教的にみるとただ単に勝義諦と世俗諦の違いが良くわかっていないだけのような気がします。

私の勘違いならごめんなさい(笑)

勝義諦からみれば名・色だけであって人や男、女、私やあなたなど存在しません。
ですから無我です。

世俗諦からみると常識的に私やあなたは存在します。

私やあなたがないなら私の物やあなたも物など存在しないので、だからと言って人の物を取ったら泥棒で捕まります。
他人の奥さんも同じです(笑)

しかし世俗諦であっても仏教では永遠不滅の我というものは存在しないということで我に非ずでしょうか?

菩薩がディーパンカーラ仏陀のもとで誓願し四大阿僧祇劫と十万世界の長い間、仏陀になるために十波羅蜜を積んできました。

その中で布施波羅蜜が一番最初ですがお布施をするとき「この功徳によって一切智者である仏陀になりますように」と願って功徳を積んだといわれています。

これって取引ですか?(別な質問の答えです)

ミャンマーではお布施の功徳によって生まれるたびに仏教に出会って幸せなになり、最後の生に阿羅漢果を得ることができますようにと祈願します。


これは永遠不滅の我が功徳を積み続けているわけではありません。

子供の時から現在まで私という感覚が続いているだけで今生においても永遠不滅の我が在るわけでもなく、生まれ変わるときに新しく生じるわけでもありません。

「無我だと輪廻なし」というようなステレオタイプを当てはめるのはそろそろ止めてほしいものです。
テーラワーダ仏教ではそれを断滅論の邪見といいます。

幸せでありますように。



2009年11月13日金曜日

お酒をやめられない方へ


日本人にとってお酒を飲まないことが五戒中最も難しいという意見を聞きます。
私も在家のとき毎日飲んでいたので偉そうなことは言えないのですが飲んでいたときは本気で酒を飲まない男はつまらないやつだと思っていたことがあります。(笑)

今回、本町のアビダンマの勉強会の後、ジュンク堂によって見つけた本は非常にお勧めです。
たばこ、お酒、ギャンブル、不倫からカルト宗教まで網羅し依存の構造への気づきによる自由をもたらしてくれる一冊だと思います。

この本でテーラワーダ仏教は止めないでください(笑)

2009年11月5日木曜日

本物の舎利ですか?

分かりません(笑)

しかし、仏教で供養すると功徳がある対象は

仏陀、阿羅漢、輪転王の舎利
Dhatu ceti

仏陀が生前使用していたもので菩提樹、衣、杖、水漉しなど受用物
paribhoga ceti

仏陀を思い浮かべるための仏像などです。
uddissa ceti

仏像は石や木などでできており本物の仏陀ではないのは誰でも知っていますが、本物でないのでなぜ供養しているのですかと聞く人は仏教徒にはいないと思います。

他宗教の人は偶像崇拝だと非難するかもしれませんね。

舎利が本物かどうかは神通力がある人なら分かるかもしれませんが普通わかりません。

由緒あるお寺に祭られている舎利だから本物だという信じることもできますが、それも疑いだせばきりがありません。

DNA鑑定などすると面白いと思いますが古さはある程度わかりますが本物どうかはわかりません。

100パーセント只の石である仏像を供養する人が本物の可能性0.01パーセントでもある舎利を供養しない理由は私には見当たりません。

0.01の数字に深い意味はありませんが(笑)

もし偽物でも大阿羅漢の徳を思い浮かべるためのuddissa cetiにはなりますので個人的には問題はないと思っています。

仏像や舎利を礼拝供養することは布施、持戒、修習、尊敬、作務、回向、随喜、聞法、説法、見直業などの十善業事のなかの尊敬や布施になりますので行わない理由はありません。

瞑想の実践が最高の功徳ですが機会があるごとに他の善業も行うべきだと思います。


幸せでありますように



2009年11月4日水曜日

菩提樹と舎利












































11月3日に会員の関さん、小山さん、広瀬さんが越冬用の菩提樹用のビニールハウスを設営してくれました。菩提樹の周りにも石で囲んで頂きました。
ありがとうございます。

会員の田代さんがミャンマーに行ったときにある寺院で頂いた舎利をアラナ精舎にお布施してくれました。

仏舎利ではなく大阿羅漢の舎利です。
サーリプッタ尊者(智慧第一)、モッガラーナ尊者(神通第一)、シーヴァリ尊者(利得第一)、バークラ尊者(無病第一)の舎利です。
写真

スダンマ長老よりスリランカ製の舎利塔をお布施していただきました。

幸せでありますように。





























2009年9月20日日曜日

正法非難罪は重業ですか?

五逆罪は①母を殺す②父を殺す③阿羅漢を殺す④仏陀に血豆を作らせる⑤サンガを分裂させるで次生に地獄におちる重業となると言われています。

私の勉強不足かもしれませんが五逆罪に決定邪見を足しているのも見たことがありますが正法非難だけで重業になるとは聞いたことがありません。
ミャンマーの中で高名なマハーガンダヨン僧院の初代の大長老のアビダンマの解説書に決定邪見を足して六逆罪にする考えは註釈書、復註釈書には見ることができず最近のものだとあります。

決定邪見の定義はお釈迦さまが説法しても取り除くことができないような邪見をいいます。
ですから普通の邪見は不善心ですが即、重業になるわけではありません。

正法非難が重業になるなら、仏教以外の宗教を信じている人、唯物論者がどんなに他の悪業を積まずに生きたとしても非難しただけで地獄に落ちることになります。

新興宗教のロジックで自宗を非難する人を地獄に落ちると脅かすのはよくあることです。

キリストの救済や、阿弥陀様の第一八願により念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると信じることは因果法則を否定していると思いますし、もし仏教と比較する場合は、自宗からみた意見を言えば非難することになります。

地獄行きでしょうか。

自分の宗教を信じて仏教を非難しなければ問題ないのでしょうか。

正法非難を非難するのは悪業になると思いますが即、重業になるとは思えません。

邪見によって悪業を犯せば悪趣に転生する確率がたかくなるのは間違いないと思います。

同じ仏教の中でも自宗を信じるのが普通だと思います。
法華経を非難するすると地獄に落ちると聞いたことがありますが、本当ならテーラワーダ仏教徒は地獄落ちですね。



幸せでありますように。

2009年9月18日金曜日

テーラワーダ仏教の預流者とは

アビダンマッタサンガハのアラナ精舎での勉強会が終了いたします。

アラナ精舎での最後の回はヴィパッサナー冥想の智恵の進歩や解脱についてです。

それに合わせて今回のブログではテーラワーダ仏教の悟りについて質問に答えるかたちで伝統的な解釈を説明したいと思います。




質問:人間界しか悟ることはできないのですか?



三因なら人間界以外でも欲界天、色界天、無色界天でも悟ることができますが、無色界天は悟る条件の一つに法を聞くとありますので物質のない無色界天は預流道の悟りを得ることができません。
それ以外は可能です。

ただ人間界は苦と楽のバランスがとれていて修行しようという気持ちが生じやすいのは確かです。

釈尊が説法すると多くの神々が悟ったなどと記述がありますし、菩薩が生まれて一週間で亡くなられたマーヤー夫人の生まれ変わりである天人に説法するためにアビダンマを天界で説き、悟ったなどともあります。




質問:預流者でも五戒を破ることはありますか?



預流道智を得ると悪趣に行くような不善心は起こりません。

五戒を破ることは悪趣に行くような業を作ります。
ですから本物の預流者なら五戒は絶対に破りませんし、そのような不善心が起こらないのですから努力して守るレベルではなく自然に守れます。

たまに自分は預流者だと思っている人がいますが、五戒を破るような気持ちが起こるか自分でチェックしてください。

他の宗教ならなんといっても結構ですがテーラワーダ仏教はこうなってます。
預流果でも酒を飲むと主張していた人は自分がお酒が好きだったなどという話もあります(笑)



参考に12ある不善心の中で悪見相応貪根心4と疑相応痴根心1を完全に取り除き、残りの不善心も悪趣に生まれ変わるような強い不善心は生じません。

預流道を得ると聖者です。道智は預流果の心が生じる前に一心刹那一回だけ生じるだけです。

ですから私は預流道(向)だというと笑われますよ。

悟っていない預流向など問題外です。

長部(ディーガニカーヤ)大篇〈2〉 (パーリ仏典)
p.73

「私は一来者への願いが確立しています」という言葉を道(向)と解釈する人がいるようですが、伝統的な
意見ではありません。註釈書によると一来道のために観vipassanaを開始している・・・・とあります。



三種類の預流者を説明します。

極七返預流者 欲界に七回転生して涅槃に入る預流者、

家家預流者 次生から六生目までの間に涅槃に入る預流者

一種預流者 一度だけ転生した後、涅槃に入る預流者


一種預流者を一来者と勘違いしている人もいますが別物です。
なぜ勘違いするかと言えば、生まれ変わりだけに目を向けるからで道智が何回生じたかとみれば間違えることはありません。

同じお経で

ここから七回
そこから七回
十四回の輪廻があります
私が以前住んでいた
その住処を憶えています

の詩ですが過去生を語ったものでこれから十四回生まれ変わるという意味ではありません。
このように何度も生まれた場所なので本来もっと高い天界に生まれ変われる善業はあるが、執着によってこの天界に生まれたと説明するためのものです。


預流者になると仏法僧に対する信が不動になり、対応する煩悩を道智によって取り除くので五戒を努力なしに守れます。

ですから生まれ変わった先で、教わることなく自然と五戒を守れるのです。
自分が生まれてから一度も五戒を破ろうと思ったこともなく、破っていないなら前世で預流者にだったかもしれませんね(笑)


幸せでありますように。




 

2009年9月8日火曜日

宗教法人ランキング



週刊ダイヤモンドが新宗教特集しているとのことで、木岡さんからお借りて読みました。
全宗教法人ランキングがあり協会を探しましたが見当たりません(笑)

テーラワーダ関係ではタイ国ダンマカーイは載ってましたが。

念仏宗に関しては当たり障りない記事なのが残念です。

2009年9月7日月曜日

アーナンダ菩提樹のお布施



8月27日にイギリス在住のミャンマー人のウ・サンドバーサ長老がアラナ精舎に立ち寄ってくれました。

その長老とは私がマハーシ冥想センターの別院で海外布教のためにミャンマー人の長老に英語を教え、外国人にはビルマ語を教えるマハーシ・インターナショナル・トレーニングスクールで2年ほど同じお寺で過ごしたことがある方です。

8月29日と30日には広瀬さん上田さんたちが京都や三田の新精舎などを案内してくれました。

9月3日には亀田さんの車でアラナ精舎から奈良に向かい、午前中、法隆寺を観光の後、奈良のスリランカレストラン ハンターナで、レストランオーナーのサマン・ペレラさんと関さんと合流し昼食のお布施をしていただきました。

その後、真言律宗 元興寺の辻村泰善住職に元興寺と東大寺を案内していただきました。




住職の御案内で東大寺の大仏殿の大仏の近くまで登ることができイギリスから来た長老と二人でお経を上げさせていだきました。
(アーナンダ菩提樹を住職にお布施いたしました)

お忙しい中、元興寺住職・辻村様には東大寺まで案内していただきイギリスから来た長老も大変喜んでおりました。

ありがとうございました。

幸せでありますように。









読経中 鹿せんべい 

2009年9月1日火曜日

思考しない心の流れ

今回は連載を休ませてもらって思考しない心の流れと思考する心の流れについて見ていきたいと思います


良い思考もしたくないレベルの高い人がいるようですが、仏教で思考しない心の流れは安止路に入っている状態です。

安止路とは色界禅、無色界禅の善心と唯作心、出世間心が定にとどまっている間生じ続けている状態です。
(アビダンマッタサンガハ第4章をご覧ください。東京の方は9月5日に勉強します)

このような状態では心の所縁が決まっており当然、ゆわえる思考は生じません。

色界禅、無色界禅に入りつづけるにはそれぞれの所縁に常に心が向かっていなければなりません。

もしゆわえる思考が生じれば、それは考えている心の流れが生じているので色界禅、無色界禅から出てしまっています。

涅槃を所縁とし果に入る時もおなじ理由です。

悟りの段階に対応し不善心は生じなくなりますが完全になくなるのは阿羅漢になってからです。

阿羅漢になれば善心が生じなくなり唯作心というただ機能するだけで結果を生じさせない心が生じますが思考しないわけではありません。

ですから悟った人や色界禅、無色界禅に入れるような人でも普段の心は思考する欲界心の状態です。

欲界心とは不善心、無因心、欲界浄心に分けられます。

ですから悟っていることと思考しないことは別の問題です。

冥想中にたとえ良い思考であってもするべきでないのは疑問は起こらないと思います。

良い思考をすること自体は当然良い心が生じているので良いとしても、冥想するという目的から離れています。

もし冥想中、悪い心が生じたときに止めることが難しいようなら、良い思考を使っても止めるべきです。



では普段の生活で良い思考を止めるべきでしょうか?

とりとめのない良い思考なら(私は掉挙だと思いますが、もしあるとすれば)止めるべきだと思いますが、止めるべきは悪い心(不善心)であって善心ではありません。

せっかく善心が生じているのに止めようとするのは間違えです。

良い思考が生じていたら生じていると「気づく」だけです。
この「気づき」の心も善心です。

お布施に関して言えばお布施するときにお布施を受ける人の徳や自分が受ける功徳について何度も考えるべきだとあります。

例えば精舎建設のためにお布施した人が、お布施したことを思い出し喜びの心を何度も生じさせるのは大変良いことです。

思い出すたびに善心が生じています。

もし思いだしたとき(冥想中以外)、当然これも思考ですから止めるならせっかく得られる功徳を逃すことになります。

まず悪い心(不善心)が生じなくなるように努力すべきです。
悪い心をろくにコントロールできない人がせっかく生じた善心の思考を止めようとすれば不善心が多く生じるだけです。

簡単に言えば阿羅漢以外の心の流れ(欲界速行心)は善心か不善心が生じているだけです。

善心を取り除こうとすれば不善心が残るだけです。

普段の生活においてなるべく「気づき」の善心か良い思考が生じるように努力すべきです。

日常生活において良い思考は「気づく」必要はあっても無理に止める必要はありません。

小さいからといって火をほっておくと大火になるように、小さい不善心でも直ぐに消すべきなのは言うまでもありません。



幸せでありますように。




2009年8月25日火曜日

お布施とは④

渇愛の力



苦しみの原因である渇愛を取り除けると良いのですが、渇愛の力も根強く不還果に達しても完全に取り除くことはできません。



31の世界で言えば有頂天(非想非非想処界)まで邪魔をし続けます。



彼らの勢力も少なくなく108の煩悩と数えることもできます。


108とは


欲愛 五欲に対する渇愛


有愛 常見を伴う色界、無色界という生への渇愛


非有愛 断見を伴う非有への渇愛


色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛の6つを掛けると18


18を過去、現在、未来の三時と掛けると54


54を内、外を掛ければ108





この勢力がある煩悩を取り除くための例えは西洋外科医が癌の手術をするようなものです。


癌に犯されている器官を遠慮せずに手術で取り除いていきます。


内にある54の渇愛に広がっている癌と外にある54の渇愛に広がっている癌を一度に取り除くことはできないので外の渇愛を少しずつ取り除いていくために布施というナイフで取り除いていく必要があります。




無余涅槃に入るとは名・色、五蘊が完全に滅した状態を言います。


新しく別な次元で特別な名・色、五蘊が生じ永遠に生老病死を乗り越えて幸せにいき続けられる世界ではありません。


いくら完全に悟りたいと思っていても渇愛がある限りは只であげるといわれても欲しいと思わないでしょう。


なぜなら自分の心にある渇愛が涅槃を受け付けないからです。


マンレーサヤドーという大長老が「愚か者と畜生に涅槃についての話は苦すぎる」とマーガデーワという本に書います。


ここで特に注意しなければならないのが涅槃と渇愛はお互いに反対の法、水と火のようなもだと理解するべきです。この二つの法は同所、同時に生じることはありません。


ですから渇愛が強い人は涅槃を受け付けません。


涅槃を体験した人は渇愛を受け付けません。(阿羅漢果)


ですから涅槃を欲する人は渇愛を取り除かなくてはなりません。


これは疑問の余地がありません。


 つづく

2009年8月14日金曜日

お布施とは③

輪廻を続かせる原因

涅槃から遠のき輪廻を続かせる法は何かといえば渇愛(貪)と慢だけでなく見(邪見)も含まれます。



カンダワッガサンユッタ、アッタディーパワッガ、サマヌパッサナー経の註釈によると、この貪、慢、見という三つの法が輪廻を続かせると述べられています。



この三つは8つの貪根心に含まれる心所です。


貪心所は8つ全てに含まれ

見心所は邪見を伴う貪根心4に含まれ

慢は邪見を伴わない貪根心4に含まれます。

ですから三つまとめてしまえば渇愛(貪)ということもできます。



また別のお経では、渇愛を犬をつないでいるロープに例えています。


凡夫の有情はロープのつながれている犬に例えられ


凡夫が大変執着する五蘊(色受想行識)を、ロープを縛っている柱に例えています。


犬を柱にロープで繋いでいるとロープの長さしか移動できません。


柱の周りを回ったり、後は寝ころぶしかありません。


柱にしっかりと繋いであるので幾ら引っ張っても逃げることはできません。


凡夫である有情も渇愛というロープで縛られているので柱という五蘊から自由になることはできません。


欲界、色界、無色界などの世界を回り続け、五蘊から自由になった涅槃を体験できません。

経典の例えとはずれますがロープが長ければそれなりに自由ではと思うかもしれません(笑)



しかし、下手に長いとそれに満足しロープのない自由な状態を望まなくなる可能性が高くなります。



敵を敵と知る


今まで輪廻を続かせる原因を見てきましたが、それは布施、持戒、冥想実践ではありません。


渇愛が原因です。

渇愛という貪心所です。


輪廻を続かせ涅槃を体験するのを邪魔する苦しみの原因である貪という敵を向かい撃つ道具が必要です。


しかし、その前に渇愛という敵を本当に敵だと思っているでしょうか?


友達だと思っている人もいるかもしれません。



敵である渇愛も表に出ていれば見つけやすいのですが、スパイのように潜伏活動を行っている場合もあります。


渇愛随眠煩悩です。機会があれば表に出てきて破壊活動を行います。



つづく

2009年8月8日土曜日

お布施とは②

ある時、世尊はコーサンビ国のガンジス河の岸で比丘たちと過ごされていました。



その時、大きな丸太が流れてきました。その丸太を見た世尊は

「比丘たちよ。ガンジス河に沿って流れてきた丸太を見ましたか?」と質問すると

比丘たちは「見ました。世尊よ。」と答えました。



世尊は「比丘たちよ。もし、この丸太が

河のこちらの岸に上がらなければ


河の向こう岸に上がらなければ


河の中ほどで沈まなければ


中州に上がれなければ


人が引き上げなければ


神が引き上げなければ


渦に巻き込まれなければ


丸太の中が腐れなければ


大海まで至るであろう。なぜならこの丸太が流れているガンジス河は大海へと流れており、向かっている。だから大海に至るであろう。




比丘たちよ。この丸太のように貴方たちも


河のこちらの岸に上がらなければ


河の向こう岸に上がらなければ


河の中ほどで沈まなければ


中州に上がれなければ


人が引き上げなければ


神が引き上げなければ


渦に巻き込まれなければ


丸太の中が腐れなければ


涅槃を確実に実現できるでしょう。なぜなら貴方たちが信じ頼りにする正しい見解という正見は涅槃へと向かっています。ですから確実に涅槃を実現できるでしょう。」と説かれました。




釈尊がこのように説かれた時、ある比丘が手を合わせて礼拝し「世尊よ。世尊が説かれたこの岸などという例えは大変奥深く、私たちの知恵では理解できません。ですからもう少し分かりやすく例えを説明してください」とお願いしました。



その時、世尊が

この岸とは眼耳鼻舌身意という六内処です。


向こう岸とは色音香味触法という六外処です。


流れの中に沈むとは喜貪です。


中州に上がるとは高慢になるなどの慢です。


人が引き上げるとは人間の生に執着することです。


神が引き上げるとは神々の生に執着することです。


渦に巻き込まれることは色貪、声貪、香貪、味貪、触貪に執着し逃れられなくなることです。


中が腐るとは、外はきれいに見えても中が腐っているように、ある人は見た目がよく本当に戒、定、慧の三学に満たされているような人に見えても、しかし、見えないところで悪行を行っているので、そのような人から悪い噂が流れてきます。そのような人を中が腐っている丸太に例えています。


この丸太の例えの経によると輪廻という河の中を流れている丸太に例えられる有情は、涅槃という大海に至らないように邪魔をする八つの障害があると知るべきです。



この八つの自性をみると貪、慢の二つの法と言えます。貪と慢があれば涅槃に至ることはできません。輪廻を回り続けるということです。



次回は輪廻を続けさせる法についてです。