まず非にしたい学者の気持ちは分かりませんが永遠不滅の我というものはないがそれ以外の我があると言いたいのかもしれません。
無我ですと例外なしに我はないという意味になると思います。
テーラワーダ仏教的にみるとただ単に勝義諦と世俗諦の違いが良くわかっていないだけのような気がします。
私の勘違いならごめんなさい(笑)
勝義諦からみれば名・色だけであって人や男、女、私やあなたなど存在しません。
ですから無我です。
世俗諦からみると常識的に私やあなたは存在します。
私やあなたがないなら私の物やあなたも物など存在しないので、だからと言って人の物を取ったら泥棒で捕まります。
他人の奥さんも同じです(笑)
しかし世俗諦であっても仏教では永遠不滅の我というものは存在しないということで我に非ずでしょうか?
菩薩がディーパンカーラ仏陀のもとで誓願し四大阿僧祇劫と十万世界の長い間、仏陀になるために十波羅蜜を積んできました。
その中で布施波羅蜜が一番最初ですがお布施をするとき「この功徳によって一切智者である仏陀になりますように」と願って功徳を積んだといわれています。
これって取引ですか?(別な質問の答えです)
ミャンマーではお布施の功徳によって生まれるたびに仏教に出会って幸せなになり、最後の生に阿羅漢果を得ることができますようにと祈願します。
これは永遠不滅の我が功徳を積み続けているわけではありません。
子供の時から現在まで私という感覚が続いているだけで今生においても永遠不滅の我が在るわけでもなく、生まれ変わるときに新しく生じるわけでもありません。
「無我だと輪廻なし」というようなステレオタイプを当てはめるのはそろそろ止めてほしいものです。
テーラワーダ仏教ではそれを断滅論の邪見といいます。
幸せでありますように。