2009年5月31日日曜日

悟りや禅定、善い世界への転生の障害について(五つの障害)


業障害(五無間業)

母を殺す、父を殺す、阿羅漢を殺す、仏陀の身体に血豆を作る、サンガを分裂させる。

今生で悟ることは出来ず次生で必ず地獄に落ちる。


仏陀は涅槃に入られているので4番目は関係なく、サンガの分裂は比丘しかできません。母を殺すなどは殺人罪ですので普通、関係ないと思います。サンガという言葉を在家の集まりまで含む人がいますが、テーラワーダ仏教では在家は含みません。サンガの分裂に関しては紗彌も関係ありません。



煩悩障害(決定邪見業)

善行為、不善行為などない、行っても善行為、不善行為にならない、非作業見(原因を否定)

生命は死んだら終わりで、また生まれ変わることはない、善行為、不善行為などの結果はない、非有見(結果を否定、断見)

良い結果、悪い結果の原因はなく偶然におこっているだけだ、無因見(原因、結果を否定、偶然論)


釈尊が法を説いても解くことの出来ないような強い決定邪見は今生で悟ることは出来ず次生で必ず地獄に落ちるといわれています。

現代人は断滅論者が多いと思いますが、それほど強烈な強さでは無いと思います。



業障害

無因、二因に生まれること

悪い種から出た芽は、いくら水、肥料をあげても立派に成長しないように禅定、道、果には至らないが智慧を伴った善心は生じるので功徳は積め来世に善趣に生まれることや悟りの縁を作ることが出来る。善趣再生の障害とはならない。

(アビダンマッタサンガハp.118)



聖者非難障害

聖者だと知っていても、知らなくても聖者の徳や戒などを非難すると善趣再生、禅定、道、果の障害となるが懺悔すれば滅罪される。

私の悪口は心配ありませんが、他の嫌いなお坊さんの悪口は言わないほうがいいでしょう(笑)



威令違把障害

出家者が戒律を犯すこと、戒律に添って懺悔すれば滅罪。

在家は五戒を守っていれば問題ありません。



ご覧のとおり関係ありそうなのは業障害ですが、自分が二因か三因か分かりませんので余計なことは考えずに、楽しく修行し功徳を積んでください。



この教義が嫌いな人は自分が二因だと証明したうえで悟れば、この教義が間違いだと証明できますが、この教義を信じる人は、もし悟ったら元々、三因だったのですよと言われるだけだと思います(笑)

幸せでありますように。

2009年5月20日水曜日

先祖供養の偈、神々、護経、ラベリング

「先祖供養の偈」がありますが、上座部仏教においては、「先祖」とはどのようなものとされていますか。上座部仏教では、全ての存在は過去生において、家族など親しい間柄だったはずとされているようですから、「生きとし生けるもの」に対する慈悲の念を持つこととの違いがあるのでしょうか。


餓鬼界に転生した親族(先祖)などに回向するのは残されたものの努めだと言われています。

ご指摘のとおり長い輪廻の中で親族にならなかった生命はいないとも説かれていますので全ての生命の回向すればいいのは事実ですが最初に対象を指定して、次に指定せずに回向するのが普通です。

回向は自分の積んだ功徳を分かち合う、向けるもので、慈は幸せを願い、悲は苦しみから逃れるのを願うことです。


「回向の文」にある「神々」とは、具体的に対象は特定されるものでしょうか。日本の「八百万の神」は含まれるのでしょうか。(あるいは、お釈迦様が対話されていたという「神々」に限定されるでしょうか。)


日本の神は別として他の宗教の神々が随喜するか分かりませんが外す理由は考えられないので含まれると思います。


護経(パリッタ)は、どのように解釈すれば宜しいですか。無形の「お守り」のようなものですか。

比丘が森なので修行するときに色々な障害がないようにと釈尊が許可したものです。

それぞれの護経に各々の功徳があります。

詳しくは南方仏教基本聖典p.12をご覧ください。

南方仏教基本聖典




本経は、古くからセイロン、ビルマ、タイなどの東南アジアの仏教徒にパリッタと呼ばれ親しまれてきた護呪経である。一般の人々にとって高い教えがはるか彼方にあるのに対し、これは現実の生活における幸福(吉祥)を願う、あるいは危険から「身を護る」ために好んで唱えられ、また比丘の間でも「自護呪」として災厄から身を守る場合のみ、その使用が許されたものである。・・・

 「ラベリング」は「補助手段」であるとは、冥想法を調べれば指摘されていることですが、「言葉」を使って、「見えている」や「痛み」などを表現しなくても、それに「気づいて」いれば大丈夫ということでしょうか。
 例えば、冥想について知っていない人でも、立ち振る舞いのきれいな人、丁寧な人というのはいるもので、このような人の場合、言葉でラベリングしていなくても動作を真剣に、精密に行っていれば、「気づき」をしていることになるのでしょうか。

理論上はただ気づいていれば大丈夫ですが、マハーシ長老は大雑把(気づきは丁寧に)にでもラベリングを続けるようにと指導しています。

例えば足を上げるときに「上げる」「上げる」「上げる」「上げる」「上げる」などと何度も入れることが出来ますが、実際に上げ始めから終わりまで丁寧に気づいていれば「上げる」と一度だけで十分です。

考え事が多い人は何度も入れると集中しやすいかもしれません。

ラベリングしていなくても動作を真剣に、精密に行っていれば、「気づき」いえますが完全に必要ないと否定せずに使えるものは使った方がいいと思います。

冥想をした方は分かると思いますが、どんなにゆっくり身体は歩いていても心はさ迷うものです。

立ち振る舞いが綺麗だからといって「気づき」が必ずあるとは思いませんが、バタバタ動いている人より「気づき」がある確立は高いと思います。

ラベリングを料理を食べるときの箸に例えます。

大事なのは料理を食べること(気づき)ですが、箸その物は食べれません。

ラベリングを非難する人は箸を使うと正しく料理を食べることが出来ないと言っているようなものです。

どのように食べようが栄養になると思います。

幸せでありますように。


2009年5月19日火曜日

最高の善行為

ヴィパッサナー冥想が最高の善行為となるのは何故ですか?
冥想することが一番しっかりした人間になる道で、すべての善行為の元になるから、というようなイメージですか?


色々な分類の仕方がありますが欲界善、色界善、無色界善、出世間善と分けることが出来ます。

欲界善、              欲界善心8を伴う身体、言葉、心による善行為(お布施からヴィパッサナー冥想まで色界、無色界、出世間以外の全ての善)

色界善、              色界禅定のことで色界梵天に生まれ変わる業をつくる

無色界善、 無色界禅定のことで無色界(物質がない世界)に生まれ変わる業をつくる

出世間善、 預流道などの悟りの瞬間のことで一来道、不還道、阿羅漢道と4回しか生じません。

 

出世間善と世間善(欲界善、色界善、無色界善)は比較にならないので世間善の中で布施、持戒、サマタ冥想(禅定に達するまでは欲界善)、ヴィパッサナー冥想と分ければヴィパッサナー冥想が最高の善行為だといえます。

しかし、布施などの善行も「この功徳が涅槃の縁となりますように」と願って行えば間接的に輪廻からの解脱へと導く善行になります。ヴィパッサナー冥想は直接的な縁となります。

生命は幸せを求めていますが、仏教では最高の幸せは全ての苦しみが滅した涅槃と説いています。

ですから直接、涅槃の縁となるヴィパッサナー冥想は最高の善行為といえます。

しかし、阿羅漢にならない限り、全ての身体、言葉、心による善悪の行為は結果を与えますので、ヴィパッサナー冥想であっても例外ではなく良い結果を与えます。

 

タバコを吸う人は涅槃が禁煙だったら行きたくないかもしれませんが(笑)あまり涅槃など達したくない人でも「この功徳が涅槃の縁となりますように」と願うようにと勧めています。

最高の涅槃に達するまでに普通の幸せは特別願う必要が無いといわれていますから。

 

人によってはヴィパッサナー冥想ばかりやって他の功徳は必要ないと思うかもしれません。

 

輪廻を旅行に例えるならば行き先に合った乗り物に乗れば目的地には着きます。

ヴィパッサナー冥想実践は八正道という涅槃が終点の新幹線に乗るようなものです。

自由席で何も飲み食いしなくても目的地にはつきますが、指定席、グリーン車に乗って食べ物や飲み物などがあれば楽しく旅行できます。

ヴィパッサナー冥想は乗車券、他の功徳は輪廻という長い道中で楽しく過ごすための旅費です。

今生で阿羅漢になりたい人は別ですが、道中の旅費はあったほうがいいと思います。

 

幸せでありますように。

 

2009年5月16日土曜日

テーラワーダ仏教の色々な解釈について


ご存知とおり仏教は色々な宗派があります。

法華経を信じる人のように本当に釈尊が伝えたかったものが法華経だと言い出したら、同じように何でも好きに言えます。

新興宗教のパターンは伝統的な宗教を正しく解釈できるのは自分の教祖だけで、それ以外を全て否定するのが特徴です。例えばエホバの証人は正しいのは自分たちだけで伝統的なキリスト教や政府は全て悪魔の影響下です。他にも最終解脱者や仏陀の生まれ変わりだという教祖もいます。

 

テーラワーダ仏教でも色々な解釈があります。

同じミャンマー仏教で同じでパーリ経典や注釈書を元に指導しているマハーシ冥想法を間違った方法だと非難する長老がいます。

例えばパアゥ・サヤドーが最近では有名です。

大きな論点は集中力のレベルにあります。

パアゥ・サヤドーは悟るには最低第一禅定に到達していないと悟ることは出来ないという意見です。

マハーシ長老は禅定に入れればベストだが、達しなくとも近行定(禅定に入る手前)に達すれば五蓋などを抑えることが出来るので第一禅まで達しなくとも悟ることが出来るという意見です。

ヴィパッサナー・ジャーナというのはこの近行定のことです。

サマタ冥想を通して作るのでなくヴィパッサナー冥想、連続したサティの実践を通じて作り上げるものです。

一度この状態に達したら後戻りしないかは私は分かりませんがサマタの禅定よりは崩れにくいということを聞いたことがあります。

定(ジャーナ)は普通、初禅などの安止定の意味ですが、冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティで五蓋が抑えられた状態をヴィパッサナー・ジャーナといいます。

どちらも一度ぐらいそのような状態になっても常に冥想しないと、また入るのは難しいでしょう。

五自在は普通、初禅などの安止定に使う言葉です。

 

他にラベリングを使うとヴィパッサナー冥想にならないなどの非難もあります。

 

パアゥ・サヤドーの意見も一部は正しいのですが、だかといってマハーシ長老の指導法が間違っているとは私は思いませんし、マハーシ長老の指導法は、ほとんどのミャンマーの大長老たちも認めている指導方法です。

しかし、少数ですがパアゥ・サヤドーのように認めない人もいます。

 

私はパアゥ・サヤドーの意見が好きな人はパアゥ・サヤドーの冥想方法を実践すればいいだけで、マハーシ長老の指導方法が好きな人はそれを実践すればいいだけです。

ただ非難するときはその非難する人がどのような意図で指導しているかを理解するようにすれば、その指導者なりの理論がありますので自分はその理論が嫌いでもそれなりに理解できるとおもいます。

私はパアゥ・サヤドーの意見は好きではありませんが、サヤドーの理論は理解できます。

だからといってマハーシ長老の指導方法が間違いだとは思いません。

 

ではどのように判断すればいいのでしょうか?

テーラワーダ仏教徒はパーリ経典や注釈書でどのように説かれているか確かめる必要があると思います。

もしマハーシ長老の指導が経典からずれていたら多くの大長老方が認めるはずは有りません。

私はマハーシで出家したので肩を持つわけではなく、マハーシ長老の本がパーリ経典や注釈書と違うところがなく納得できるからです。

協会のホームベージにヴィパッサナーQAPDFに詳しく説明されていますのでご覧ください。

 

私はパーリ経典や注釈書を一字一句全てが正しいと思うような原理主義者ではありませんが、ミャンマーで出家したテーラワーダ比丘として伝統的な解釈は尊重しようと思っています。

もし、自分では信じられないところがある場合は、伝統的にはこのように解釈されていますが私はどうかと思うなどと説明します。

もし伝統的な説明無しで伝統的でない自分の意見を述べれば、聞く人はそれが伝統的な解釈だと勘違いするからです。

そして違う僧侶が伝統的な解釈を説明したら、その伝統的な解釈を間違いだと思いうかもしれません。

 伝統的な解釈を取るか取らないかは本人の自由です。伝統的ではないからと言って間違いだとは思いません。

私はアビダンマなどを詳しく勉強する前はマハーシ長老の批判をされると、非常に怒りがこみ上げていました() 多分、マハーシ長老ご本人は非難されても怒りなどは起こらないと思います。

日本にも「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」みたいな言葉があったような気がします。

勉強するメリットの一つは色々な見方が出来ることです。

 

テーラワーダ仏教の教義はダムの堤に例えられます。

小さい穴でもそのままにしておくとダムの決壊を招きます。

自分の意見で伝統的な解釈を否定しダムに穴を開けるのは差し控えた方がいいと思っています。ただ現代人には信じられないところはその時代の文化などの影響をうけたものだと理解すればいいと思っています。

以前、ブログでも書きましたがバイキング料理のレストランに行って自分の嫌いな料理があっても取らなければいいだけで、残りの料理を楽しめばいいだけです。

 

パソコンのエクセルに詳しい人がエクセルの入門書を読まないからといってその人が、その入門書の価値が無いといっているわけでありませんし著者を侮辱する意味はありません。

初めての人には大変役に立つと思いますし、中級者以上でも参考になるところがあるかもしれません。

パソコンが少し詳しいからといってだれでも書けるわけではなく、分かりやすい入門書を書くのは大変な能力が必要ですので大変尊敬できます。

 

ブログやコメントで何か不愉快な表現がございましたらお許しください。

特定の個人を非難するつもりはありません。

何か問題を指摘してくれる人を仏教では有難く思うのが伝統です。

サーリプッタ尊者は小僧が衣の乱れを指摘したとき、喜んで直したように、私もいつでも直すつもりはあります。在家の人であろうがお気づきの点がございましたらお知らせください。

 

それぞれの戒、定、慧の実践が最も大切だと思っています。

教条主義を振りかざしたいわけでは有りません。

もし私にミャンマーのテーラワーダ仏教の伝統と違うものがあればご指摘ください。

正しい指摘であればいつでも喜んでお受けいたします。

私が信じられないなら九州の平和パゴダや茨城の大洋村に学問を積んだ大長老がいますので確認ください。

スマナサーラ長老のように自由自在に説法できる智慧は私にはありませんが、自分なりに工夫して誤解を生まないように布教活動を続けたいと思っています。

こんなブログでも面白いといってくれる方がいるのが救いです。

たまに更新したらお付き合いください。

幸せでありますように。

2009年5月6日水曜日

三因について


54日に協会員の方にお昼のお布施と大阪南港の近くの海岸に連れて行ってもらいました。

連休中ですので大変な混み方で、さらにまいったのはコスプレ・イベントが開催中で思いっきり間違えられました()

今回も質問がありましたのでお答えします。

なるべく簡単に分かりやすく書こうと努力していますが難しいことを簡単に書く才能はありませんし、それを考え出すと書く気が失せるので、たまに?いつも仏教用語満載のブログについていけない方はお気軽にご質問ください。

 

テーラワーダ仏教では残念ながら誰でも今生で仏陀になれるとか、悟れるわけではありません。今生で仏陀になりたい人は上座部仏教は止めたがいいと思います。

以前、インドには悟った牛がいると聞いたことがありますが()

上座部仏教ではありえないのでヒンズー教の悟りをえているのかもしれません。

(どうして?と思う方は最後までお読みください)

 

因とは心が生じるときの木の根のように例えられています。

その根が貪(欲)、瞋(怒り)、痴(無知)、とその反対の 不貪、不瞋、不痴(慧)の六つのことです。

貪、瞋、痴は悪い心が生じるとき対応しますが貪、瞋、は同時には生じません。

不貪、不瞋、不痴(慧)は不貪、不瞋は必ず同時に生じ

善心(欲界善心、色界善心、無色界善心、出世間善心・道心)

唯作心(阿羅漢の良い心と機能だけの心でどちらも結果を与えない)、

異熟心(過去生の善、不善の結果の心)と関係します。

 

生まれ変わりに関係するのが異熟心です。

異熟心の因は無因か不貪、不瞋、不痴(慧)の三つ因です。

不善心の結果は無因不善異熟心で悪い世界へ生まれ変わらせます。

善異熟心が無因善異熟心、二因心、三因心の三つで人間以上の世界に生まれ変わらせます。

 

このブログを読んでいる人は二因、三因で、違いは慧をもって生まれているかどうかです。

普通三因の方が頭がいいと思いますが、仏教的に言えば今生で悟る可能性が有るか無いかです。

二因だとどんなに努力しても悟れませんし禅定にも達することが出来ません。

三因であっても努力しない限り禅定に達することは出来ませんし、悟りに関しては過去生からの徳の量とも関係しますので努力だけでは悟れません。

スポーツで結果をだす選手は才能もあるし子供のときから努力し続けています。

努力すれば誰でも金メダルを取れるわけではありません。

この理屈が宗教になると不公平だと言い出す人が出てくるので、不満がある方は阿弥陀様のセーフティーネットに救ってもらってください()

 

あまりこの話をしたくないのは、一歩間違えると冥想する気がうせてしまい今生では功徳を積んで遠い未来の生において悟ろうと考えるかもしれないからです。

別に悪い考えではありませんし、そう考えている長老さえいます。

結論は自分が何であろうとあきらめずに善心が生じるように努力するだけです。

努力すれば三因なら悟るかもしれないし、二因なら功徳が積め来世で悟る縁となります。

 

幸せでありますように。

2009年5月3日日曜日

飲酒について


五戒の中にお酒の好きな人にとっては理解しづらいものがあります。

少しなら身体に良い

接待などの仕事上避けられない

酔って悪いことをしなければ問題ない

など色々と意見があります。

世間的な見方をすればそれなりに正しいのですが仏教的に見ると問題が在るからお釈迦様が五戒の中に入れているのではないでしょうか。

私も以前お酒が好きで毎日飲んでいました。

裸になって捕まったことはありませんが飲みすぎて前日の記憶がなくなることもありました()

あまり偉そうに人に酒を飲むなと言えませんがよく質問されるので気になる方は参考にしてください。

 

【少しなら身体に良い】

少しなら身体には良いかもしれませんが、酔った状態を楽しむ癖をつけるのは仏教的に言うと危険です。

死んだら終わりだと考えている人は勝手ですが、生まれ変わりに大きく影響する死ぬ前の意識が、酔った状態を楽しむ人は無知の心が生じやすく悪い世界に生まれ変わるかもしれません。

経典の中には飲酒する人は、地獄に落ちるか、運がよく人間に生まれても頭がおかしくなるといわれています()

エホバの証人が輸血をすると千年王国に行けないと信じて拒否する信者がほとんどですが、仏教の信者も見習ったがいいかもしれませんね()

 

【接待などの仕事上避けられない】

ネットで大乗のお坊さんが仕事上酒を飲むのが避けられないと書いていました()

般若湯とか名前を変えてごまかさずに私はお酒が好きだから止める気が有りませんと言えば納得できるのですが、色々な理由が浮かんできます。

悪ガキがタバコを吸っているとき友達に無理やり勧めるように、大人が接待中にタバコを吸わない人にタバコは勧めないのではないでしょうか。

最近は俺の注いだ酒が飲めないのかと絡む人は少ないと思います。

元酒好きの意見ですが()お酒が好きな人は自分が飲みたいだけで人が飲むかどうかは関係有りません。

先生(お釈迦様)に止められている、身体に合わないなどといって断ればいいと思います。

 

【酔って悪いことをしなければ問題ない】

私は酔うと直ぐに寝てしまうので問題ないという人がいますが、酔った状態を楽しむことが仏教的に危険なのと普段は真面目な人でも飲みすぎると普通ではやらないことをやってしまう可能性が高くなります。

 

全ての生命は幸せを求めています。

飲酒は仕事から解放されたときや、友達と家族との幸せな瞬間に飲むことが多く、本来、幸せが先でそれに飲酒が伴っているだけが、いつのまにか飲酒すると幸せになると勘違いして依存が生まれていきます。

酒やタバコに依存しなくても幸せ、外部に頼らない幸せが仏教的でなないでしょうか。

お酒を飲まなくても幸せでありますように。