2009年3月30日月曜日

怒りについて


 

怒りについて色々な教典や清浄道論などに説かれていますので参考にご紹介します。

そんなことは既に知っているけど他にどうすればいいか聞かれる場合がありますが仏教以外の方法は、別の人に聞いてください()

 

9つの怒りの対象の他に理由なく怒るというのが入っています。例えば天気が良くて腹が立つようなものです。天気が良いことによって問題が在れば分かりやすのですが、なぜか怒り起こるとあります。

1.         自分の利益を損なうようなことを現在行っている

2.         以前行ったことがある

3.         将来行うだろう

4.         自分の好きな人の利益を損なうようなことを現在行っている

5.         以前行ったことがある

6.         将来行うだろう

7.         自分の嫌いな人の利益になることを現在行っている

8.         以前行ったことがある

9.         将来行うだろう

 

理由はどうであれ怒りを正当化したら怒りは続きますので解決策

 

【怒りを取り除く方法】

1.         慈悲の瞑想を親しい人と嫌いな人で何度も交互に行う。

2.         たとえ鋸で自分の身体を切られたとしても怒りを起こすべきではないという釈尊の法話を思い出す。

3.         嫌いな人の良い身体、言葉、心の行為を思い出す。

4.         怒らないように自分に言い聞かせる。

5.         自分が怒れば自分だけが悪い結果を受けるだけだ

嫌いな人が私に対して怒れば、彼が悪い結果を受けるだけだと自他の業と業果について考える

6.         釈尊が菩薩のときに怒りを起こさなかったかというジャータカ物語を思いだす。

7.         輪廻の中で両親親族などにならなかったものはいないと思い、嫌いな人も過去に自分の親だったと思い怒りを取り除く。

8.         慈の11の利益を思い出す(よく眠れる、目覚めが良い、悪い夢を見ない、人から好かれる、神から好かれる、神々が守ってくれる、武器・火・毒などから逃れられる、集中しやすい、顔が綺麗になる、死ぬ前に意識がはっきりしている、禅定に達することが出来れば梵天界に生まれる)

9.         自分は誰に怒っているのかと考え、嫌いな人を髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚、に分けたり、色受想行識の五蘊に分けるなどして怒りの対象である人は存在しないと考える

10.     嫌いな人にプレゼントする() 与えることで誤解などがとけ関係が改善するかもしれません。

以上が清浄道論からです。

11.     嫌いな人に哀れみの心を起こす

12.     捨の心をおこす

13.     嫌いな人のことを考えないようにする

14.     怒りの心の悪い結果を考える

残りはスッタニパータの註釈書からです。

【怒りの悪い結果】

怒っているときの顔は醜く、たびたび起こっていると普段も醜くなる

よく眠れなくなる

怒りは何の利益も生まない

財産などが無くなる

仲間が減り評判が悪くなる

友達を失くす

来世で悪趣に生まれる

 

ウエブーサヤドーという有名な大長老のお寺の近くで二頭の牛が喧嘩をして暴れていました。そして突付き合いながらサヤドーのお寺の敷地に入ってしまったそうです。今まで怒り狂っていたのに突然二頭の牛はお互いに傷を舐めあいだしたそうです。それを観ていた農夫が驚き、サヤドーの慈悲の力を畜生でさえ分かるのに人間である自分が修行しないでどうするのだと考え瞑想に励んだそうです。

幸せでありますように。

2009年3月25日水曜日

ヴィパッサナー瞑想の目的は思考を止めることですか?


 

まずヴィパッサナー瞑想とは何かと理解する必要があります。

伝統的な説明では身体を不浄、感覚を苦、心を無常、法を無我と観るとあります。

思考を使って考えなさいというわけではありません。

簡単な定義は心と身体(物質)を何の解釈もなしにありのままに観ることです。

ラベリングするのが目的ではありません。ラベリングは補助手段です。

気づく、念じる、観る、観察するなどと色々な言葉を使っていますが意味は同じです。

ありのままに観ることによって集中力と智慧が高まれば、無常、苦、無我の真理がそれなりに分かります。

本当に分かるには悟るしかないわけですが。

 

思考にも善い思考と悪い思考があります。

善い思考は基本的に何度も生じさせるべきですが、ヴィパッサナー瞑想にとってはたとえ善い思考であっても邪魔になります。考えていたら瞑想になっていません。ただ思考しているだけです。最悪の場合、瞑想中悪い思考が生じていたらその間は悪業を積んでいることになります。

ですから善い思考は良くて、悪い思考はしないなどと説明しないで「思考を止めて観察しなさい」とおっしゃっているのではないかと思います。

 

ヴィパッサナー瞑想の目的は観察、理解することで、思考を止めることではありません。生じた思考に対してすばやく気づくことによって結果として「止る」訳で思考していたら上手くいっていないことになります。

気づき、観察することが主で、結果として思考が生じるのが少なくなります。しかし、普段の生活で完全に無くなるわけではありませんし、それをめざすのは間違いです。

仏教は煩悩を取り除くのが目的です。良い思考は取り除く対象ではありません。

 

八正道の中に正思惟があります。

 

経典のいたるところに正思惟とは何かを説かれています。

出離思惟(nekkhammasa³khappa)

色声香味触に対する欲から離れる、輪廻の苦から出離したいという考え(無貪心alobha

 

無瞋恚思惟(avyæpædasa³khappa)

全ての生命が幸せであって欲しいと願う慈しみの考え(無瞋心adosa, mettæ

             

無害思惟(avihiµsasa³khappa)

すべての生命が苦しみから逃れて欲しいと願う考え、(悲心karu¼æ

これが正思惟である。

苦の滅に至る八正道の正思惟は修習(育てる)すべきものです。

 

疑問に思ったらその時にどんどん質問したらいいと思います。初心者の場合は質問しづらいかもしれませんが勘違いするよりましです()

 

 

2009年3月23日月曜日

十波羅蜜について


スメーダ菩薩が仏陀、一切知者、正自覚者(sammæsaµbuddha)になるまで四大阿僧祇劫と10万世界の間、普通の人が出来ないような徳を積み続けた十種類の波羅蜜(尊い人、菩薩の実践・完成行)があります。

 

I. 布施波羅蜜dæna pæramø

水に満たされた鉢をひっくり返すと鉢の中の全ての水が流れ出るように、お布施する物の価値に関わらず、お布施を受ける人がいれば水がめの例えのようにお布施すること。

お布施に関して波羅蜜を分けると

品物をお布施するのが波羅蜜 pæramø

自分の手足などをお布施するのが上波羅蜜 upapæramø

自分の命をお布施するのが最勝波羅蜜 paramatthapæramø

 

II. 戒波羅蜜 søla pæramø

ある動物は自分の尻尾が何かに引っかかったとき尻尾が傷つくの嫌がり、その場所で死ぬまで過ごすように自分のを命がけで守ること。

別解脱律儀戒(守る人を解脱させる防護となる戒、227戒など、信)、

根律儀(眼耳鼻舌身意の六根の防護という戒、念)、

正命遍浄戒(正しい方法で収入を得て生活する戒、精進)、

資具依止戒(正しく自覚した上で衣食住薬などの資具を受用すること、慧)

 

III. 出離波羅蜜 nekkhmma pæramø

監獄の中で長い間虐待されている人が、その監獄に執着がなく自由になりたいように、欲界、色界、無色界という全ての世界に生まれるということを監獄と智慧で観察し出離を願うこと。出家すること。

 

IV. 智慧波羅蜜 paññæ pæramø

出家者が貧富を選ばずに托鉢していくように、智慧の大小に関わらず教えを受けるためにつ近づき質問して智慧波羅蜜を積んでいくこと。

 

V. 精進波羅蜜 vøriya pæramø

百獣の王、ライオンが何者も恐れないように精進すること。

 

VI. 忍波羅蜜 khantø pæramø

大地に綺麗な物を捨てて汚いものを捨てても全てのものに対して好き嫌いがなく平静なように忍波羅蜜を積むこと。

 

VII. 真実語波羅蜜 sacca pæramø

星星が季節に関わらず自らの軌道を進むように、状況に関わらず真実を話すこと。

 

VIII. 決意波羅蜜 addhi¥¥hæna pæramø

決意すること。ジャータカの中にテーミ王子の物語があり王子は出家するまで聞こえない、話せないようなふりをして過ごすと決意するようなことです。

 

IX.. mettæ pæramø

水は善人、悪人に関わらず暑い日に水浴びすれば体を冷やし汚れを落とすように、敵であれ友であれ差別せずに慈を起こすこと。

 

X.. 捨波羅蜜 upekkhæ pæramø

苦しければ怒りが生じやすく、楽があれば欲が生じやすいので、どちら側にもにも揺れ動かされないで平静であること。ここでも大地の例えです。

興味のある方はジャータカ全集が春秋社より出版されていますのでご覧ください。

ジャータカ全集〈1〉


 

 

 

 

 

 

2009年3月21日土曜日

瞑想についての質問


>慈悲喜捨の瞑想の中で得意な心から育てる、というのは、何故ですか?(それしかできないからですか?)

ある心を育てると、他の心も自然と育つのですか?

心がどういう風に育っていくものなのか、イメージできないので・・・



なるべく善い心を起こすのが第一でどんな種類の善い心を起こすべきかは重要ではありません。

不得意な瞑想法は瞑想にならず不善心が生じる可能性がありますので、やりやすい対象を実践した方が良いと思います。

何でも挑戦しないといつまでも進歩しないのは確かですが、例えば「私の嫌いな人が幸せでありますように」でいつも怒りが生じるならばとばした方がいいかもしれません。

座ってヴィパッサナーをするといつも妄想がが多いなら、他の得意な瞑想をすればいいと思いと思います。

得意なのがないなら仕方ありませんが(笑)

自分が得意な瞑想をやることによって集中力が高まり、以前まで苦手だった他の瞑想法が楽に出来るようになるかもしれません。

慈悲の心を育てていれば怒りの心が生じにくくなるので、他の瞑想でもうまく行く可能性があります。

心が育つという意味では答えが適切か分かりませんが、どんな善い心でも、別の善い心の呼び水になるようなものです。

しかし、不善心が多くなると、今までの善い流がわるくなり最悪の場合ですと悪い心の流れが噴出してくるかもしれません。

完全に邪見や疑を取り除くには預流道に達しないといけませんが、仏法を学んだりヴィパッサナー瞑想によって弱くすることが出来ますし、どんな善い心であれ一時的に不善心を生じさせなくします。不善心が生じなくなればなるほど善い心が育っているといっていいと思います。



「感覚を観察するということは、観察すること自体は感覚することではないということですか?観察っていったいどいうことなんですか?」とか・・・。



観察とは解釈を交えずにありのままに見ることです。全ての心の中には感受する働きがありますが、どれに重点がおかれているかで、少し違います。感覚を中心に観察すると受随観(vedanænupassanæ)です。感覚に重点をおかずに体の動きなどを観察すれば身随観(kæyænupassanæ)です。当然、感覚が無いと体の動きの知ることができませんが、ヴィパッサナー瞑想における感覚という用語は苦、楽、不苦不楽などのように観察するのが普通です。心を観察すれば心随観(cittænupassanæ)になり、それ三つ以外の観察を法隋観(dhammænupassanæ)と言います。


確かに、痛みや痒みを観察することはできるんですが、しかし、観察することを観察することはできないわけで、それなら、観察っていったい何?と疑問を持ってしまいました(笑)



心は一度に一つしか生じません(笑)

ですから観察することを観察するたいなら、一瞬後に観察できます。しかし、そのように考えることも、思考の一つなので「考えている」や「妄想」などとラベリングしるべきでしょう。


しかし、そもそもヴィパッサナー実践は、「思考を止める」ことなので、こんな質問したら「出て行け!」っておっしゃるだろうなぁ、とか、「妄想」がたくさんありました(笑)



「思考を止める」のがヴィパッサナー瞑想の目的ではありません。思考が生じたらそれを観察するだけです。当然集中力が高まれば妄想は少なくなりますが。

初心者の方は正しい瞑想の仕方を理解する必要があります。思い込みと言うのは誰にでもあるもので、熱海の瞑想会などのインタビューのときにびっくりすることがあります。

例えば、体を動かさないようにと指導があったとします。私は聞いていないので分かりませんけれども、正しい姿勢から動かさないようにという意味だと思います。しかし中には姿勢が崩れた状態でもその姿勢から動かしてはいけないと思っている人もいます。(笑)

これは極端な例ですが、合宿瞑想会に参加できなくても疑問に思うことはどんどん質問してください。

ただ教義的なもの結構ですが、実践的な質問の方が他の人の参考になると思います。


十波羅蜜については次回までお待ちください。
  

2009年3月17日火曜日

捨について


捨の心を育てる方法についての質問がありました。

スマナサーラ長老がおっしゃっているように自分の得意な心を育てていく方がいいと思います。

慈悲の瞑想の方がやりやすいなら、

やりやすい方を伸ばしていくのをお勧めいたします。

また日常生活において揺れ動くことなく平静でいるには、

ヴィパッサナー瞑想の実践が一番だと思います。

自分の感情や心を直接見ているうちに自然と以前までなら怒っていたときでも怒らなくなると状態は皆さんも体験済みだと思います。実感がなくても以前ほど怒りが早く消えているかもしれませんね。


【二つの捨】

十波羅蜜のなかの捨波羅蜜と慈悲喜捨の捨梵住は同じではありません。

捨波羅蜜は他の生命が自分に対して親切に接しようが失礼に接しようが、

それに対して喜んだり怒ったりしないで平静でいることです。


捨梵住は自他の関係おいての平静ではなく

全ての生命に対して慈悲喜を生じさせずに捨の心を起こすことです。

四梵住の慈悲喜捨は同時に生じません。

なぜなら一つ一つの心の対象が違うからです。


【捨とは】

慈のように他の生命の幸せを願うわけではなく、

悲のように苦しんでいる生命が、その苦しみからのがれらるように願うわけではなく、

喜のように幸せな生命に対してともに喜ぶわけではありません。

全ての生命は業だけが自分の持ち物であると見て平静でいることです。

例えば海外で戦争などで虐殺されている人々をみて、

その苦しみから逃れますようにと願うのが悲。

しかし一歩間違えると、悲ではなく憂いになることがあります。

暗くいやな気持ちです。

悲は善心と一緒に生じ暗い気持ちにはなりません。

憂いは怒りと同時に生じる不善心所です。

憂いを起こさないように、どうしようもない状態に対して

これも何かの悪業の結果でどうすることも出来ない、

業だけが自分の持ち物であると見て平静な心を育てていきます。

ただ単に鈍感で平気な人も捨のように見えますが、

無知の状態の可能性が高いようです。

ある指導者は第五禅定に達して捨の瞑想をすると早いといいますが、

第五禅定に達するのが大変ですね(笑)


幸せでありますように。

2009年3月16日月曜日

悪(不善)について

悪pæpa(不善akusala)について

仏教で不善とは非があり悪い結果を起こすと定義しています。

【非があり】

殺生、偸盗、邪淫、妄語、酒や麻薬などを服用するなどは不善になります。

お酒に関しては異論がある方が多いかもしれません。

酔っ払って幸せな気分かもしれませんが、酒に酔った状態は不善心が生じています。

文化的には問題ないかもしれませんが仏教的に不善です。

他の四つに対して異論がある人は少ないと思いますが、殺生に関しては殺人は犯罪ですが、ゴキブリを殺しても悪いと思わない人も多かもしれませんが自分が殺されたくないように全ての生命も同じように殺されたくないと自分に置き換えて考えれば分かりやすいと思います。

あまり哲学的に考える必要はなく普通に考えればいいと思います。

もし不機嫌な暗い状態で「悪とは何か」と考えいたら、今の不機嫌さや暗さを取り除くのが先だと思います。

【悪い結果を起こす】

これは証明できません。

世の中には悪いことをやっていても幸せなに生き、長生きする人は少なくないと思います。

悪いことをやっていても悪い結果が起きていない例です。

幸せに見えても心中は不幸だと言う人もいますが、もしかしたら鈍感で不幸に思わないかもしれません。

死んだら終わりならヒットラーなども自殺して終わりです。

行為とその結果を説明するには今生だけでは不十分です。

たとえ本当に神通力を得て自分で前世や来世が分かったとしても証明するのは無理でしょう。

仏教の教義を勉強して理解することは出来ますが、証明できないような業、業果(行為とその結果)、来世や前世はなどは信じるしかないと思います。

悪いことが起こるとすぐに「業」だと言う人がいますが、仏教では何でもかんでも業の結果ではありません。

全てを過去の業の結果だとする考えはPubbekatahetu di¥¥hi 宿作因邪見と言います。

タバコを吸いすぎてガンになったとします。普通タバコが大きな原因の一つです。過去の悪業も少しは関係するかもしれませんが、それは一部です。仕事のストレスや環境、食べ物なども影響があるでしょう。

景気が悪いのも業のせいではありません。

自分がニンジンが嫌いなのも業のせいにする必要はありません。味を感じた瞬間の心は業の結果(異熟心)ですが嫌いだと判断するのは、今生の心です。

仏教の教えを学んで受け入れがたいものがあればそのままにしておくのが一番でしょう。

バイキング形式のレストランで食事をするとき自分の嫌いなものがあっても取らなければいいだけです。

腹を立てて食事をしないで帰る必要はありませんし、不機嫌で食べる必要もありません(笑)

幸せでありますように。

2009年3月13日金曜日

ラベリング,特別な体験,出家などの質問

質問1  初心者の冥想指導では、何でもこころに浮かんだものは「妄想」の一言で処理していくようです。こころの浄化を目的にした大まかなものだと思われますが、ヴィパッサナー冥想時のラベリングは、思考やイメージ、感情が湧いた際にも「妄想」で良いのでしょうか。余裕が出てきた場合の細かなラベリングの仕方があれば、教えてください。

マハーシ瞑想センターの指導方法をご紹介いたします。

これと違う指導方法が間違っているという意味ではありません。

     考えている場合は「考えている」とサティします。イメージが見えた場合は「見えている」、何か聞こえる場合は「聞こえる」です。何故、「音」としないかは外の対象でなく瞑想者側から気づくためです。見えるとき「物」とラベリングしませんよね() 感情なども「怒っている」などとその時、思いついたもので結構です。言葉を心の中で使いますがあくまでも対象をしっかり気づくためにラベリングで補助手段です。どういう言葉を使うかはそれほど問題ではなく、客観的に正しく気づくのが重要です。どのようにラベリングしたらいいか考えているときも「考えている」または「迷っている」です。形容詞ではだめで名詞にするとか完了形にするとか過去形にするとかはどうでもいいことです。マハーシではビルマ語のときは動詞です。


質問2  ヴィパッサナー冥想の最中に、サマタ冥想時のような特別な現象、インパクトの強い体験をすることはあるのでしょうか。それは、冥想がうまく行っているために生じるのか、あるいは反対に間違っているために生じるのでしょうか。また、その場合、どのようにラベリングするのでしょうか。

     ヴィパッサナー瞑想でも集中力が高まれば色々な体験はおこります。正しいとか間違っているとかは本人と話してみないと分かりませんが、そのような体験をしたときに、それに執着しないで基本に返って瞑想することが大事です。気持ちよかったら「気持ち良い」光などが見えたら「見える」瞑想が進んでいると思ったら「考えている」何か洞察があれば「洞察している」などです。

ミャンマーの瞑想という本が詳しいのでお読みください。

ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法


 

質問3  日本で上座部仏教の出家比丘になる方法はありませんか。また、タイやミャンマー、スリランカで出家比丘になる場合、どのような手続きになるのでしょうか。言葉は完全に習得した上でないと難しいですか。あと、長期滞在のためのビザなどはどうするのでしょうか。

     日本で出家するので一番勧められるのは茨城の上座部仏教修道会のウ・ニャーヌッタラ長老の下で出家するのが一番だと思います。(長老に了解を得ずに書いています。3月号のパティパダに記事があります。)スマナサーラ長老を尊敬する人は日本テーラワーダ協会で出家したがりますが、今のところお勧めできません。長老は忙しく相手している暇もなく、ただ法話を聞いたり自分で瞑想したりするぐらいなら在家でも出来ます。在家の服からテーラワーダの衣に着替えただけで生活が以前とほとんど変わらないなら意味がありません。

テーラワーダの国に行って出家するのをお勧めします。話せる方が良いのはあたりまえですが、話せなくても何とかなるものです。最低それぐらいの覚悟がない人は在家のままで瞑想や勉強は十分に出来ますので出家しないほうがテーラワーダ仏教のためにもなると思います。衣を着て日本でうろうろされるとテーラワーダ仏教全体のイメージが悪くなるだけですから。

出家の手続きはテーラワーダの国やお寺によって違うと思います。一番簡単に出家させてくれるのはミャンマーだと思います。ビザの延長も出家すれば心配ないと思いますが出家したらサポートする在家の人が必要です。托鉢で生活するので食べ物には困りませんが、ビザの延長やたまに帰国したい場合にはお金が必要です。ご家族が援助してくれるのが一番だと思います。

 

幸せでありますように。

 

2009年3月9日月曜日

知と信のバランス

タバコの好きな聖人?でボーミンガウンという行者がいました。

テーラワーダ仏教とは関係ない超人(仙人?)信仰です。しかし、彼らに言わせると仏教を守っているそうです。

彼らは修行によって長い間(例えば千年とか)生き続けることが出来ると信じられています。

私は信じませんが、テーラワーダで現世利益を願う信者さんに、そちら系の根強い需要があります()

中には詐欺師が田舎の素朴な人をだましてお金を集めていると聞いたことがあります。

自分は1300歳以上だという坊さんもいます。ただの詐欺師で衣を着ていても、出家者ではありません。

また一ヶ月以上断食、水断ちで修行したという人もいますが、断食は可能でしょうが水断ちは最高1週間でしょう。

(千日回峰行の体験記をお読みください)

それだけで私は嘘だと思いますが、信じて尊敬する人が少なくありません。

挙句の果てには砂を食べて生きているという、坊さんも現われました()

後で嘘がばれて警察に捕まりましたが。

(それでも信じる人がいるのは驚きです)

彼らはお金を集めてパゴダを建ていきます。当然、中にはまじめな人もいると思いますが怪しい人が多いのは否定できません。

(日本の土建政治家のようなものでしょうか)

こんなことを書くと切れる人がいるのであまり関わりたくないのですが、知と信のバランスが必要です。

 

知(ここでは仏教の慧ではありません)が強すぎると何でも疑い、唯物主義に陥りがちです。たとえ仏教を信じていても、そのようなタイプの人は、合宿瞑想に参加しようという人に、瞑想は日常で気づきの状態を保てばいいだけでわざわざ特殊な環境で修行しても意味がないなどと言ったりします。

言っていることはまんざら間違いではありませんが、教習所で運転を練習せずに直ぐに道路で練習しろと勧めるようなものです。教習所は実際ありえない特殊な環境ですが、初心者にとっては役に立ちます。必ず合宿瞑想をしたほうが良いわけではありませんが、やはり環境の整った場所で何日か瞑想するのは良いものです。

 

信(ここでは仏教の信ではありません)が強すぎると、だまされやすくなります。

ミャンマーの田舎で実際にあった話しです。

ある行者が村に突然やってきます。

自分は錬金術に成功したと触れ込んで、金を預けたら錬金術で増やして返すと約束します。

はじめ村人は恐る恐る、試しに少し金を預けて様子を見ます。

行者は何度も利子付きで返していきます。

何度か利子をつけて返すことによって、素朴な(欲深い?)村人はその偽錬金術しに挙って金を預けだします。

そこで金を集めた行者詐欺師は夜逃げだそうです。

日本である詐欺と同じパターンですが、舞台がミャンマーなので行者の錬金術が絡みます()

 

仏像を本当の仏陀だと思う人はいないと思います。

お釈迦様の徳に心を向かわせやすくするための方便です。

どんなに信じても仏像は仏陀にはなりません。

しかし、信じる人にとっては大切なものです。

あまり本質と関係ないものは気にせずに、お釈迦様の教えを実践し心を育てていくのが一番大切なのではないでしょうか。

信心深い人は少し読んでバランスを取ったらどうでしょうか

疑似科学・トンデモについて知るためのリンク集

http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/link.html

 

 

 

2009年3月6日金曜日

テーラワーダにおける信


 

仏教の中での色々な信の解釈があると思います。

他の解釈はさておき、テーラワーダ仏教の信について簡単に説明いたします。

日本で信といえば「鰯の頭も信心から」のようにつまらないものでも、信仰するとありがたく思えるなどとしてのイメージがあります。

しかし、テーラワーダ仏教では信は非常に大切な善心所(善い心の要素)の一つです。

言葉の定義をいえば、仏、法、僧、因果の法則など正しいことを信じる心所です。

間違ったことを信じるのはテーラワーダ仏教では信といいません。

理解して知れば知恵を伴った信になります。

理解なく信じても信は信です。

理解しなくて良いとはいう意味ではありません()

例えば仏教国の小さな子供にはただ両親が信じていて自分もそのまま信じるようなものです。

そこには知恵が伴うのは少ないでしょう。

(歳を重ねるごとに理解は深まると思いますが)

 

信があることを手に例えることがあります。

ある人が宝石のたくさんある山に行ったときに手がなければ宝石を拾うことが出来ません。

せっかく仏教という宝石の山にたどり着いても手が無ければ拾うことは出来ません。

当然、それが高価な宝石かただの石かは見る目が無いと区別は出来ません。

知恵の目が必要です。

日本では宝石だと思って拾って放射能に汚染された石を拾う人が多いのはかわいそうです。

放射能で汚れた危ない石を宝石だと思う邪見によってつかむことはテーラワーダ仏教では信といわず、

間違った決定(勝解:対象を決定し確知すること)です。

昔の人は地球が平らだと確信していました。

ある新宗教の信者は自分の教祖が仏陀の生まれ変わりだと確信しています。

日本語ではそれが正しいかは別として「かたく信じて疑わない」意味があります。

ですから皆さんは言葉を「信」から「確信」に変えることで納得せずにテーラワーダ仏教での意味を理解してくだい。意味が分かれば「信」でも「確信」でもどちらでもかまいません。

 

みなさんが仏法という宝石を信という手でつかむことが出来ますように。