2009年9月1日火曜日

思考しない心の流れ

今回は連載を休ませてもらって思考しない心の流れと思考する心の流れについて見ていきたいと思います


良い思考もしたくないレベルの高い人がいるようですが、仏教で思考しない心の流れは安止路に入っている状態です。

安止路とは色界禅、無色界禅の善心と唯作心、出世間心が定にとどまっている間生じ続けている状態です。
(アビダンマッタサンガハ第4章をご覧ください。東京の方は9月5日に勉強します)

このような状態では心の所縁が決まっており当然、ゆわえる思考は生じません。

色界禅、無色界禅に入りつづけるにはそれぞれの所縁に常に心が向かっていなければなりません。

もしゆわえる思考が生じれば、それは考えている心の流れが生じているので色界禅、無色界禅から出てしまっています。

涅槃を所縁とし果に入る時もおなじ理由です。

悟りの段階に対応し不善心は生じなくなりますが完全になくなるのは阿羅漢になってからです。

阿羅漢になれば善心が生じなくなり唯作心というただ機能するだけで結果を生じさせない心が生じますが思考しないわけではありません。

ですから悟った人や色界禅、無色界禅に入れるような人でも普段の心は思考する欲界心の状態です。

欲界心とは不善心、無因心、欲界浄心に分けられます。

ですから悟っていることと思考しないことは別の問題です。

冥想中にたとえ良い思考であってもするべきでないのは疑問は起こらないと思います。

良い思考をすること自体は当然良い心が生じているので良いとしても、冥想するという目的から離れています。

もし冥想中、悪い心が生じたときに止めることが難しいようなら、良い思考を使っても止めるべきです。



では普段の生活で良い思考を止めるべきでしょうか?

とりとめのない良い思考なら(私は掉挙だと思いますが、もしあるとすれば)止めるべきだと思いますが、止めるべきは悪い心(不善心)であって善心ではありません。

せっかく善心が生じているのに止めようとするのは間違えです。

良い思考が生じていたら生じていると「気づく」だけです。
この「気づき」の心も善心です。

お布施に関して言えばお布施するときにお布施を受ける人の徳や自分が受ける功徳について何度も考えるべきだとあります。

例えば精舎建設のためにお布施した人が、お布施したことを思い出し喜びの心を何度も生じさせるのは大変良いことです。

思い出すたびに善心が生じています。

もし思いだしたとき(冥想中以外)、当然これも思考ですから止めるならせっかく得られる功徳を逃すことになります。

まず悪い心(不善心)が生じなくなるように努力すべきです。
悪い心をろくにコントロールできない人がせっかく生じた善心の思考を止めようとすれば不善心が多く生じるだけです。

簡単に言えば阿羅漢以外の心の流れ(欲界速行心)は善心か不善心が生じているだけです。

善心を取り除こうとすれば不善心が残るだけです。

普段の生活においてなるべく「気づき」の善心か良い思考が生じるように努力すべきです。

日常生活において良い思考は「気づく」必要はあっても無理に止める必要はありません。

小さいからといって火をほっておくと大火になるように、小さい不善心でも直ぐに消すべきなのは言うまでもありません。



幸せでありますように。