意味が分からなくてもパーリ語の読経をすることに功徳があるというお話や、パーリ語日常経典でも「聞くだけでも幸福を獲得します」と書かれていてす。
読経やお経を聞くことの功徳について教えてください。
業の話にも関係しますが善心が生じれば楽の結果を受けるので功徳があると言えます。
仏教徒がパーリ語のお経を有難いと思って聞けば善心が生じる可能性が高いと思いますので、ただ聞いただけでも功徳があるといえます。
伝統的には
正しいパーリ語の発音で意味をしっかり理解したうえで心をこめてお経を唱える。
聞く人も意味を理解したうえで敬虔に聞くと大きな功徳があると言われています。
ですからミャンマーやタイではパーリ語を在家の人に唱えさせるときはその国の言語でも唱えさせます。
日本語だけでも三帰依、五戒を唱えても何の問題もありません。
ただテーラワーダ仏教はパーリ語で伝えらてきているのでパーリ語を重視して唱る伝統です。
現在のパーリ語の正しい発音というのがお釈迦様の時の発音と同じかとは仏教文献学者などの意見は色々とありますが、それぞれのテーラワーダの国の正しい発音で唱えれば正しいと解釈するのが無難だと思います。
註釈書の中に真実語を唱えると力があるという話が多く出てきます。
インド文化では普通の概念だと思いますがマントラに力があるというの原因にもなっているのかもしれません。
マントラは意味が分からなくても有難がってとなえますが、この真実語の概念は良いことでも悪いことでもその言葉が正しければ力があるというように信じられています。
ある人が毒蛇にかまれて死にしそうになっていた時、その関係者が色々な真実語を唱えます。
例えば私は結婚してから主人の事をずっと好きではなかった。
バラモンが唱えたのは、私が出家してから長い間出家生活を楽しんでいなかった。
別な話ではもの心ついて以来、故意に殺生したことがない。
その真実語を唱えると病気が治ったりする話があります。
五戒文を唱えることも功徳はありますが、守るために唱えているのが本来の目的です。
慈経もどのように実践するか説かれたお経ですから慈の心をおこさないと本来の意味から離れると思います。
薬の名前や効能書きを唱えても実際に飲まないと薬の効果はありません。
ミャンマーのモウゴッサヤドーの話の中で普通の人々は飲み薬を飲まずに塗るようなことをしていると説法しています。
功徳があるかないかと考えるより、その時の心が善心か不善心かと考えれば分かりやすいと思います。
幸せでありますように。