2009年12月26日土曜日
スカ沙弥物語の出典について
2009年12月17日木曜日
新興宗教の教祖の称号と功徳
そういう新興宗教や信者さんが繁栄しているのを見聞きすると「善因善果の因果法則のお陰だろう」と推測し、正しい仏教の教えなのではと思ってしまい、そちらに入会してみたくなります。どのように解釈すればよいのか教えてください。
この世で生きるにはお金はもちろんないよりあったほうがいいですし、多くの人がそう思って、家族や自分のために忍耐して一生懸命働いたり、智慧を使ってビジネスで増やそうとしていますが、仏教では修行者にはお金への欲・執着、物への欲・執着を捨てなさいと教えているんですよね。
そうです。
功徳も、この世で生きるにはないよりあったほうがいいし、徳の高い方は尊敬され願望も叶いやすいと聞きます。
そのとおりです。
金が欲しい、金が欲しい」は欲望だと分かりやすいですが、「徳が欲しい、徳が欲しい」は欲望にはならないのでしょうか?
もし徳を積む時に、単に「善いことだからしよう、困っているから助けよう」という気持ちではなく、「願望成就のために、利益のために、名誉のために、功徳が欲しい!もっと欲しい!」と思って徳を積もうとするのも善因善果になるのでしょうか?
お坊さんと頻繁に会える、一緒にどこかに行ける方、というのはやはり徳が高いからでしょうか?
吉祥経にお坊さんと会えるのか吉祥だとあります。
依存的な心が強くなければ良いことだと思います。
何かをする時に、経済的な費用の捻出が難しい人は徳がない人と考えて間違いないでしょうか?
経済的な力と精神的な徳のあるなしは一緒にすべきではありません。
貧乏でも精神的な徳の高い人はいますし、金を持っていても精神的な徳のない人はいます。
経済的な業の良さという意味では功徳が多いといえるでしょう。
そうなのですか?例えばどなたでしょうか?
お釈迦様の弟子で過去生で阿羅漢に対して行った悪業で本人が阿羅漢になっても托鉢でお布施をもらえず苦労した仏弟子がいます。
この阿羅漢は過去の悪業によって現世で一生の間、貧乏です。
大変失礼な質問になってしまうかもしれないのですが、テーラワーダ仏教の国は日本や西欧等と比較して経済的には豊かだとは言えない状況だと思うのですが、なぜですか?
タイでは貧しい人(ホームレスや孤児)は過去生における悪行為の結果なので仕方ないという理由で、だいたいの人があまり気にもしないし助けないそうです。
これも因果法則の結果だからしょうがないんでしょうか。
人間以上の世界に生まれるのは善業の結果です。貧乏な家に生まれるのは過去の悪業の影響ですが貧困が存在すのは現実の社会システムの問題でもあります。
貧しい人を悪業の結果だからほっとくというのは別問題ですし、国や豊かな人ができる限り助ける必要があると思います。
今生の努力などで貧乏な生まれでもお金持ちになるのは、業も関係しますが今生での努力や智慧、その時の経済状況も関係すると思います。
そしてミャンマーもどうして経済的貧困が続いているのでしょうか?とても信仰が篤く優しく親切な方が多い(半分想像)のに。
そして仏教国の誇りを持ちながらもどうしてミャンマーの方々は日本やアメリカやヨーロッパ等先進国(豊かな国)に行きたがる・住みたがるのでしょうか?
ミャンマーはイギリス、日本の植民地から独立した後、約10年ほど民主主義でしたがその後はずっと軍事政権です。
お布施の功徳があってもミャンマーに生まれ変わってくるにふさわしい豊かな家が少ない。
生きているときに先進国に経済的にあこがれているのでその憧れの心の力で先進国に生まれる。
私の考えですが天界に生まれてる人が多いのではないでしょうか。
ミャンマーの国が自由で経済的に豊かな国なら殆どの人は態々外国に出稼ぎしたり移民はしないでしょう。
日本も戦後しばらくは新天地を求めて外国に移民してた歴史があります。
ダンマから離れた国に生まれるのは不幸なことだと聞きましたが、日本に生まれたということは善行為の結果なのでしょうか?悪行為の結果なのでしょうか?
現在日本にはテーラワーダ仏教の教えがありますし、戦争をしている国や食べ物に困るような国と比べたら格段に良い所に生まれていると思います。
過去生で何かお布施や波羅蜜を積んだ結果なのでしょうか?
少しは自信を持ってもいいのでしょうか。
人間に生まれて仏教に出会い、瞑想や仏教の勉強をしてみようという信がある人は自信を持っていいでしょう。
現在日本に生きているというのは事実ですから、智慧を持って努力するだけだと思います。
2009年12月15日火曜日
読経やお経を聞くことの功徳について
読経やお経を聞くことの功徳について教えてください。
業の話にも関係しますが善心が生じれば楽の結果を受けるので功徳があると言えます。
仏教徒がパーリ語のお経を有難いと思って聞けば善心が生じる可能性が高いと思いますので、ただ聞いただけでも功徳があるといえます。
伝統的には
正しいパーリ語の発音で意味をしっかり理解したうえで心をこめてお経を唱える。
聞く人も意味を理解したうえで敬虔に聞くと大きな功徳があると言われています。
ですからミャンマーやタイではパーリ語を在家の人に唱えさせるときはその国の言語でも唱えさせます。
日本語だけでも三帰依、五戒を唱えても何の問題もありません。
ただテーラワーダ仏教はパーリ語で伝えらてきているのでパーリ語を重視して唱る伝統です。
現在のパーリ語の正しい発音というのがお釈迦様の時の発音と同じかとは仏教文献学者などの意見は色々とありますが、それぞれのテーラワーダの国の正しい発音で唱えれば正しいと解釈するのが無難だと思います。
註釈書の中に真実語を唱えると力があるという話が多く出てきます。
インド文化では普通の概念だと思いますがマントラに力があるというの原因にもなっているのかもしれません。
マントラは意味が分からなくても有難がってとなえますが、この真実語の概念は良いことでも悪いことでもその言葉が正しければ力があるというように信じられています。
ある人が毒蛇にかまれて死にしそうになっていた時、その関係者が色々な真実語を唱えます。
例えば私は結婚してから主人の事をずっと好きではなかった。
バラモンが唱えたのは、私が出家してから長い間出家生活を楽しんでいなかった。
別な話ではもの心ついて以来、故意に殺生したことがない。
その真実語を唱えると病気が治ったりする話があります。
五戒文を唱えることも功徳はありますが、守るために唱えているのが本来の目的です。
慈経もどのように実践するか説かれたお経ですから慈の心をおこさないと本来の意味から離れると思います。
薬の名前や効能書きを唱えても実際に飲まないと薬の効果はありません。
ミャンマーのモウゴッサヤドーの話の中で普通の人々は飲み薬を飲まずに塗るようなことをしていると説法しています。
功徳があるかないかと考えるより、その時の心が善心か不善心かと考えれば分かりやすいと思います。
幸せでありますように。
2009年12月11日金曜日
2009年12月5日土曜日
お布施とは⑤
渇愛とは
① 随眠渇愛
② 纏渇愛
③ 犯罪渇愛の三種あります。
随眠渇愛とは衆生の蘊の相続に常に潜んでいるといわれている渇愛です。
纏渇愛とは所縁と触れることにより蘊の相続の中に生起する渇愛の種類です。
犯罪渇愛とは蘊の相続に生じた渇愛を抑えることができず実際に言葉、身体の行為によって悪行をなすような渇愛です。
この三種の渇愛の中で随眠という渇愛は生住滅としてはっきり存在する渇愛ではありません。
続く
2009年11月26日木曜日
業についての質問
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)
いろいろな原因が重なって一つの結果が生じると言いたいだけで業など関係ないと言っている訳ではありません。
ミャンマーに「自分の善業を信じて毒蛇のいる薮に入るな」という言葉があります。
ヘビースモーカーでも癌になるならないは業果によるからと信じてタバコを吸って癌になったらこれも業果だと思えますか?
もちろん中にはどんなに吸っても癌にならない人もいますが、確率を考えるとリスクが高すぎます。
ここで癌になった原因がタバコ、過去の業、仕事のストレスまた食品添加物や車の排気ガスなど考えることができ過去の業のみが原因だと思うのはどうかと言っているのです。
業と考えるよりタバコが最も大きな原因と考えるのが普通です。
ギャンブルで全財産を無くした人がこれも業果だと言っていたらどう思いますか?
ギャンブルが原因でしょう。
少しアビダンマを勉強したことがある人は今生で行った行為が直ぐに結果を与える現法受業ではないかと思うかもしれません。
この業を拡大解釈するとそれこそ何でも業だけの結果になります。
現法受業の直接原因としては教典にある例は貧乏な人が心の働きが止まる滅定からで出たばかりの阿羅漢にお布施したらお金持ちになった。
阿羅漢の比丘尼を強姦したら地面に飲み込まれたなど特別な場合だけです。
普通の今生で行う行為(業)の今生での結果(異熟)は過去生の業を支持したり、妨害したり、殺害(消す)する、更に将来の生で色々な結果を与える働きをします。
業果だからしかたないと受け身にならず、積極的に善業を積んでいけばたとえ悪業があったとしてもその悪業を妨害し、過去の善業を支持する働きが生じればより良い人生が送れると思います。
細かい業とその結果を理解出来るのはお釈迦様だけだと言われています。
ですからこの程度で納得するしか無いと思います。
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)
色々な眼、耳、鼻、舌、身の対象を認識するときの心の流れ(路)の中の異熟心は過去の業による結果です。
何かきれいなものを見た時の瞬間の心は過去の業による結果である心ですから「過去の自分の業に起因している」のとおりですが、その見えたものは自分の業で出来たものではありません。(天界なら別ですが)
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)
業も法則に従って働いているだけで無常です。しかし法則(法)は無我であって無常でありません。
熱湯に長く手を突っ込んだら無常だから時々火傷して、時々火傷しない訳ではありません。
「私の業」は「私」は勝義諦では存在しませんが「業」は存在します。
12月12日大分の勉強会、19日の東京アビダンマ講座は業の話しになりますので興味のある方はご参加ください。
2009年11月24日火曜日
自殺などの質問
死ぬ間際の心の流れの中の速行心が過去、現在の善、不善の業を所縁として生じます。
例えば臨終速行に過去の殺生を所縁として不善心が生じれば不善異熟心によって地獄、畜生、餓鬼、阿修羅のどれかの世界に結生します。
同じく布施、持戒、瞑想などを所縁とすれば善心が生じ善異熟心によって人、天などの善趣に結生します。
質問の「次の心」とは結生心(その生の中で一番最初に生じる心、有分心)だと思いますが、それが自分にあった体を作るという表現は間違いとは言えませんが、過去の善、不善の業によって心の小刹那ごとに業生色(業によって生じる物質)を生じさせるが正しいと思います。
結生心それ自体は心生色は生じさせません。その次の心からすべての生位の刹那に心起因色(心生色)を生じさせます。
業によって犬に生まれ変わったならば犬の生の中でいきなり猫にならないのは業による色によるものです。
アビダンマでは業、心、食(滋養素)、時節などが物質をつくると言えます。
DNAの例えはあまり正確ではないので削除しました。
(仙台のYさん)
よほど修行した人や聖者でない限り善趣に転生するのは難しいでしょう。必ず地獄に行くとは言えませんが。常識的に考えて自殺する人の自殺する前の精神状態が良いとは思えないので臨終速行心が不善心になる可能性が高く、そうなれば必ず悪趣に落ちます。
(仙台のYさん)
仏教ではすべての原因が業一つだけだと考えるのは邪見に入ります。
寿命を全うせず途中で亡くなるという業があったとしても今生での選択で自殺しないかもしれません。
たとえ乗っていた飛行機が落ちて死んだとしても業一つだけが原因ではありません。
2009年11月23日月曜日
註釈・復註釈書が作られた場所
2009年11月16日月曜日
非我と無我の違いとは
2009年11月13日金曜日
お酒をやめられない方へ
2009年11月5日木曜日
本物の舎利ですか?
2009年11月4日水曜日
菩提樹と舎利
2009年9月20日日曜日
正法非難罪は重業ですか?
2009年9月18日金曜日
テーラワーダ仏教の預流者とは
2009年9月8日火曜日
宗教法人ランキング
2009年9月7日月曜日
アーナンダ菩提樹のお布施
2009年9月1日火曜日
思考しない心の流れ
2009年8月25日火曜日
お布施とは④
渇愛の力
苦しみの原因である渇愛を取り除けると良いのですが、渇愛の力も根強く不還果に達しても完全に取り除くことはできません。
31の世界で言えば有頂天(非想非非想処界)まで邪魔をし続けます。
彼らの勢力も少なくなく108の煩悩と数えることもできます。
108とは
欲愛 五欲に対する渇愛
有愛 常見を伴う色界、無色界という生への渇愛
非有愛 断見を伴う非有への渇愛
色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛の6つを掛けると18
18を過去、現在、未来の三時と掛けると54
54を内、外を掛ければ108
この勢力がある煩悩を取り除くための例えは西洋外科医が癌の手術をするようなものです。
癌に犯されている器官を遠慮せずに手術で取り除いていきます。
内にある54の渇愛に広がっている癌と外にある54の渇愛に広がっている癌を一度に取り除くことはできないので外の渇愛を少しずつ取り除いていくために布施というナイフで取り除いていく必要があります。
無余涅槃に入るとは名・色、五蘊が完全に滅した状態を言います。
新しく別な次元で特別な名・色、五蘊が生じ永遠に生老病死を乗り越えて幸せにいき続けられる世界ではありません。
いくら完全に悟りたいと思っていても渇愛がある限りは只であげるといわれても欲しいと思わないでしょう。
なぜなら自分の心にある渇愛が涅槃を受け付けないからです。
マンレーサヤドーという大長老が「愚か者と畜生に涅槃についての話は苦すぎる」とマーガデーワという本に書います。
ここで特に注意しなければならないのが涅槃と渇愛はお互いに反対の法、水と火のようなもだと理解するべきです。この二つの法は同所、同時に生じることはありません。
ですから渇愛が強い人は涅槃を受け付けません。
涅槃を体験した人は渇愛を受け付けません。(阿羅漢果)
ですから涅槃を欲する人は渇愛を取り除かなくてはなりません。
これは疑問の余地がありません。
つづく
2009年8月14日金曜日
お布施とは③
輪廻を続かせる原因
涅槃から遠のき輪廻を続かせる法は何かといえば渇愛(貪)と慢だけでなく見(邪見)も含まれます。
カンダワッガサンユッタ、アッタディーパワッガ、サマヌパッサナー経の註釈によると、この貪、慢、見という三つの法が輪廻を続かせると述べられています。
この三つは8つの貪根心に含まれる心所です。
貪心所は8つ全てに含まれ
見心所は邪見を伴う貪根心4に含まれ
慢は邪見を伴わない貪根心4に含まれます。
ですから三つまとめてしまえば渇愛(貪)ということもできます。
また別のお経では、渇愛を犬をつないでいるロープに例えています。
凡夫の有情はロープのつながれている犬に例えられ
凡夫が大変執着する五蘊(色受想行識)を、ロープを縛っている柱に例えています。
犬を柱にロープで繋いでいるとロープの長さしか移動できません。
柱の周りを回ったり、後は寝ころぶしかありません。
柱にしっかりと繋いであるので幾ら引っ張っても逃げることはできません。
凡夫である有情も渇愛というロープで縛られているので柱という五蘊から自由になることはできません。
欲界、色界、無色界などの世界を回り続け、五蘊から自由になった涅槃を体験できません。
経典の例えとはずれますがロープが長ければそれなりに自由ではと思うかもしれません(笑)
しかし、下手に長いとそれに満足しロープのない自由な状態を望まなくなる可能性が高くなります。
敵を敵と知る
今まで輪廻を続かせる原因を見てきましたが、それは布施、持戒、冥想実践ではありません。
渇愛が原因です。
渇愛という貪心所です。
輪廻を続かせ涅槃を体験するのを邪魔する苦しみの原因である貪という敵を向かい撃つ道具が必要です。
しかし、その前に渇愛という敵を本当に敵だと思っているでしょうか?
友達だと思っている人もいるかもしれません。
敵である渇愛も表に出ていれば見つけやすいのですが、スパイのように潜伏活動を行っている場合もあります。
渇愛随眠煩悩です。機会があれば表に出てきて破壊活動を行います。
つづく
2009年8月8日土曜日
お布施とは②
ある時、世尊はコーサンビ国のガンジス河の岸で比丘たちと過ごされていました。
その時、大きな丸太が流れてきました。その丸太を見た世尊は
「比丘たちよ。ガンジス河に沿って流れてきた丸太を見ましたか?」と質問すると
比丘たちは「見ました。世尊よ。」と答えました。
世尊は「比丘たちよ。もし、この丸太が
① 河のこちらの岸に上がらなければ
② 河の向こう岸に上がらなければ
③ 河の中ほどで沈まなければ
④ 中州に上がれなければ
⑤ 人が引き上げなければ
⑥ 神が引き上げなければ
⑦ 渦に巻き込まれなければ
⑧ 丸太の中が腐れなければ
大海まで至るであろう。なぜならこの丸太が流れているガンジス河は大海へと流れており、向かっている。だから大海に至るであろう。
比丘たちよ。この丸太のように貴方たちも
① 河のこちらの岸に上がらなければ
② 河の向こう岸に上がらなければ
③ 河の中ほどで沈まなければ
④ 中州に上がれなければ
⑤ 人が引き上げなければ
⑥ 神が引き上げなければ
⑦ 渦に巻き込まれなければ
⑧ 丸太の中が腐れなければ
涅槃を確実に実現できるでしょう。なぜなら貴方たちが信じ頼りにする正しい見解という正見は涅槃へと向かっています。ですから確実に涅槃を実現できるでしょう。」と説かれました。
釈尊がこのように説かれた時、ある比丘が手を合わせて礼拝し「世尊よ。世尊が説かれたこの岸などという例えは大変奥深く、私たちの知恵では理解できません。ですからもう少し分かりやすく例えを説明してください」とお願いしました。
その時、世尊が
① この岸とは眼耳鼻舌身意という六内処です。
② 向こう岸とは色音香味触法という六外処です。
③ 流れの中に沈むとは喜貪です。
④ 中州に上がるとは高慢になるなどの慢です。
⑤ 人が引き上げるとは人間の生に執着することです。
⑥ 神が引き上げるとは神々の生に執着することです。
⑦ 渦に巻き込まれることは色貪、声貪、香貪、味貪、触貪に執着し逃れられなくなることです。
⑧ 中が腐るとは、外はきれいに見えても中が腐っているように、ある人は見た目がよく本当に戒、定、慧の三学に満たされているような人に見えても、しかし、見えないところで悪行を行っているので、そのような人から悪い噂が流れてきます。そのような人を中が腐っている丸太に例えています。
この丸太の例えの経によると輪廻という河の中を流れている丸太に例えられる有情は、涅槃という大海に至らないように邪魔をする八つの障害があると知るべきです。
この八つの自性をみると貪、慢の二つの法と言えます。貪と慢があれば涅槃に至ることはできません。輪廻を回り続けるということです。
次回は輪廻を続けさせる法についてです。