まずヴィパッサナー瞑想とは何かと理解する必要があります。
伝統的な説明では身体を不浄、感覚を苦、心を無常、法を無我と観るとあります。
思考を使って考えなさいというわけではありません。
簡単な定義は心と身体(物質)を何の解釈もなしにありのままに観ることです。
ラベリングするのが目的ではありません。ラベリングは補助手段です。
気づく、念じる、観る、観察するなどと色々な言葉を使っていますが意味は同じです。
ありのままに観ることによって集中力と智慧が高まれば、無常、苦、無我の真理がそれなりに分かります。
本当に分かるには悟るしかないわけですが。
思考にも善い思考と悪い思考があります。
善い思考は基本的に何度も生じさせるべきですが、ヴィパッサナー瞑想にとってはたとえ善い思考であっても邪魔になります。考えていたら瞑想になっていません。ただ思考しているだけです。最悪の場合、瞑想中悪い思考が生じていたらその間は悪業を積んでいることになります。
ですから善い思考は良くて、悪い思考はしないなどと説明しないで「思考を止めて観察しなさい」とおっしゃっているのではないかと思います。
ヴィパッサナー瞑想の目的は観察、理解することで、思考を止めることではありません。生じた思考に対してすばやく気づくことによって結果として「止る」訳で思考していたら上手くいっていないことになります。
気づき、観察することが主で、結果として思考が生じるのが少なくなります。しかし、普段の生活で完全に無くなるわけではありませんし、それをめざすのは間違いです。
仏教は煩悩を取り除くのが目的です。良い思考は取り除く対象ではありません。
八正道の中に正思惟があります。
経典のいたるところに正思惟とは何かを説かれています。
出離思惟(nekkhammasa³khappa)
色声香味触に対する欲から離れる、輪廻の苦から出離したいという考え(無貪心alobha)
無瞋恚思惟(avyæpædasa³khappa)
全ての生命が幸せであって欲しいと願う慈しみの考え(無瞋心adosa, mettæ)
無害思惟(avihiµsasa³khappa)
すべての生命が苦しみから逃れて欲しいと願う考え、(悲心karu¼æ)
これが正思惟である。
苦の滅に至る八正道の正思惟は修習(育てる)すべきものです。
疑問に思ったらその時にどんどん質問したらいいと思います。初心者の場合は質問しづらいかもしれませんが勘違いするよりましです(笑)