2009年3月2日月曜日

山の頂上は一つ


 

 

宗教の世界で教えは違っていても、名前などが違うだけで真理は一つだと言う人がいます。

また登山のルートは色々あるが頂上に着けば同じだと例える人もいます。

この理屈で宗教戦争がなくならばいいのですが、現状はうまくいっていないようです。

 

仏教も大きく分けて上座部、大乗、チベット仏教など、小さく分けると日本でも伝統的な仏教も十五宗派あるなどと読んだことがあります。

上座部(テーラワーダ)も大乗ほどの宗派の違いはありませんが、それでもグループは沢山あります。

経典はパーリ経典で同じですが、派閥が出来た歴史や戒律厳守するか自主性に任せるかで、戒律厳守のグループなどは独立する傾向にあります。

ご存知の方が多いと思いますが、仏滅100年後に戒律について自由な解釈をするグループと厳密に釈尊が決めたとおりに守っていこうとするグループに分かれました。

そのころ分裂してもう2500年近くたちます。

別にどちらが良いか悪いかの議論は置いておいて、いまさら一つにしようというのは現実的ではありませんし、同じテーラワーダ、同じミャンマーの派閥でさえまとめることは出来ません。

 

私は出家して間もないころ何故、一つにならないのかと思っていましたが、今ではそうは思いません。

1980年ごろビルマでは政府が介入して多数あった派閥を(確かではありませんが)11ぐらいにまとめました。本当は一つにしたかったのでしょうがこれが限界だったようです。

ビルマ第五結集を行ったミンドン王の前ごろは小さなグループはあってもサンガは一つでした。しかし、ミンドン王が自分の尊敬するシュエジン長老を独立させてしまい、その後は他のグループも独立して行きました。

独立した理由は置いておいて、お互いにどのように付き合っていくかだと思います。

 

アメリカのシアトルに行ったとき、アメリカで始めてできたという100年ほど歴史のある浄土真宗のお寺を見学に行きました。仏壇を近くで見たかったので、上がって良いですかと聞くと祭壇(少し高くなっていて広い、日本では在家の人が上がっても何の問題も無いような場所)は僧侶しか上ることは出来ませんと言われ、真宗のお坊さんにこのようなことを言われたので笑ってしました。(真宗の僧侶のみでしたら理解できます)

 

それと反対のことですがマハーシ瞑想センターでは韓国からの大乗の僧侶の方が多く修行に来ます。そこでテーラワーダの比丘の食事のテーブルと一緒ではなく在家のテーブルで一緒に食事しなければなりません。

大乗の僧侶の方が多ければ専用のテーブルを用意しますが、少ないと在家に混ざって同じテーブルで食事することになります。この扱いが非常に不満なようで、直ぐにテーラワーダに一時出家する僧侶が多くいます。

不満は分かりますがミャンマー側が招待したわけではありませんし、一緒のテーブルで同じ皿の料理を取って食べていると戒律上問題が在るのが一つの理由です。理由はさておき修行に行った側が理解するのが筋だと思います。

だらだらと長くなりましたが、その宗派の教義はその中においては正しいかもしれませんが、他の宗派にとって受け入れられないものかもしれません。それをまとめるのは無理な話で、出来ることはお互いに理解し敬意を持って接するだけだと思います。兄弟喧嘩は止めましょう。それが同じテーラワーダ内なら言うまでもありません。

幸せでありますように。