2009年3月6日金曜日

テーラワーダにおける信


 

仏教の中での色々な信の解釈があると思います。

他の解釈はさておき、テーラワーダ仏教の信について簡単に説明いたします。

日本で信といえば「鰯の頭も信心から」のようにつまらないものでも、信仰するとありがたく思えるなどとしてのイメージがあります。

しかし、テーラワーダ仏教では信は非常に大切な善心所(善い心の要素)の一つです。

言葉の定義をいえば、仏、法、僧、因果の法則など正しいことを信じる心所です。

間違ったことを信じるのはテーラワーダ仏教では信といいません。

理解して知れば知恵を伴った信になります。

理解なく信じても信は信です。

理解しなくて良いとはいう意味ではありません()

例えば仏教国の小さな子供にはただ両親が信じていて自分もそのまま信じるようなものです。

そこには知恵が伴うのは少ないでしょう。

(歳を重ねるごとに理解は深まると思いますが)

 

信があることを手に例えることがあります。

ある人が宝石のたくさんある山に行ったときに手がなければ宝石を拾うことが出来ません。

せっかく仏教という宝石の山にたどり着いても手が無ければ拾うことは出来ません。

当然、それが高価な宝石かただの石かは見る目が無いと区別は出来ません。

知恵の目が必要です。

日本では宝石だと思って拾って放射能に汚染された石を拾う人が多いのはかわいそうです。

放射能で汚れた危ない石を宝石だと思う邪見によってつかむことはテーラワーダ仏教では信といわず、

間違った決定(勝解:対象を決定し確知すること)です。

昔の人は地球が平らだと確信していました。

ある新宗教の信者は自分の教祖が仏陀の生まれ変わりだと確信しています。

日本語ではそれが正しいかは別として「かたく信じて疑わない」意味があります。

ですから皆さんは言葉を「信」から「確信」に変えることで納得せずにテーラワーダ仏教での意味を理解してくだい。意味が分かれば「信」でも「確信」でもどちらでもかまいません。

 

みなさんが仏法という宝石を信という手でつかむことが出来ますように。