2009年7月11日土曜日

業の例え

アラナ精舎のアビダンマッタサンガハの勉強会がやっと八章の終りに近づきました。


八章は縁について解説されており非常に難しい所です。


その中の業については興味がある人が多いと思いますので例えで紹介してみます。


分からない用語はとばしてください(笑)


これは例えですので本当に何か変化しないでどこかの空間(アカシックレコード?)や心 (アラヤ識、マナ識?)に蓄積されていると思われると困るのですが例えを使ったほうが理解しやすいと思いますのでその点をご理解ください。


二つのタンクに水が溜っていて一つの蛇口のノブをひねると黒い汚れた水が出(不善業の異熟)、


もう一つの蛇口のノブをひねるときれいな水がでます。

(善業の異熟)


タンクの中黒い汚れた水は過去の不善業、


もう一つのタンクの中のきれいな水は善業の例えです。


(業とは善、不善の心に伴う思心所です。この思心所に身口意の行為の原因となる力がありそれが心の連続の中に潜在力として残り将来の業果、異熟という結果を与えると言われています)


二つのタンクの水は基本的に過去世の善業、不善業によって溜ります。


それは前世かもしれませんが100万生前かもしれませがどんどん溜り続けています。


また蛇口のノブをひねることは現世においての善業、不善業の例えでもあります。


蛇口のノブをひねることは今出ている水とは関係ありませんが、


(蛇口のノブをひねること自体が今出ている水を創造しているわけでないという意味です)


来世以降使える水がタンクの中に、蛇口のノブをひねる力加減によって溜ります、


今の善業は過去の善業を引き出す支持業

(自分自身では異熟を結ぶことはないが、他の業が異熟をもたらす際にはその機会を与え、また他の業の作る異熟の勢力を盛んなるようにその業に力を貸し、他の業が異熟を結んだあとには、その異熟が長く存続するように援助する業)


や不善業への妨害業

(令生業に異熟をもたらすための機会を与えない。或いは既に機会を得ている場合には、そのもたらす異熟の勢力の力が弱まるように令生業の力を削ぐ。或いは既にある異熟が持続しないように妨害する業)となり、


その今の善業自体は来世以降の令生業(結生時、或いは生起時に異熟心・心所、業生色などを生じさせる業)なります。


また今の不善業は過去の不善業を引き出す支持業や善業への妨害業となり、


その今の不善業自体は来世以降の令生業となります。


今生の善、不善の業が今生で直接結果を与えるのは非常に稀です。


現法受業(現世で直ぐに結果を与える業 例:滅定からでた阿羅漢にお布施し急に今生の業の力によってお金持ちになるような業、阿羅漢の比丘尼を強姦し急に死ぬような業)や出世間の道心の業です。



現法受業は条件が難しく簡単に生じるものではありませんし、


出世間の道心(善心)は凡夫から聖者に生まれ変わるぐらなような強いものですからこれも特別で出世間の果心(異熟心)を、間をあけることなく生じさせます。


黒い水のタンクにつながる蛇口のノブをひねらずに、きれいな水につながるタンクを蛇口のノブをひねり続け、最後には両方の蛇口のノブを壊して水が出なくしまうことによりどんなに水が残っていようが関係なくしてしまします。



この蛇口の特徴はノブとは関係なく勝手に漏れてくる場合があることです。


人によっては良いことばかりやっていても悪いことが立て続けに起こる場合があります。

ノブをひねらなくとも黒い水が漏れ出ています(笑)



悪いことばかりやっていても良いことが立て続けに起こる場合もあります。

ノブをひねらなくともきれいな水が漏れ出ています(笑)



ですから蛇口のノブをひねることができないようにした阿羅漢でも漏れ出た水である色々な業の結果を生きている限り受け続けるというわけです。



書いているうちにだんだん無理がある例えだと思いましたが参考になれば幸いです(笑)

2009年7月8日水曜日

新興宗教と業

先日、大分から車で福岡までの移動中に新興宗教の話になりパターンは同じで騙されているのかと改めて感じました。


ある人が病気になると親切にお見舞いや相談に行き、ちょっと良いところがあるのだけど行きませんかと誘う(新興宗教は自分たちのことを宗教だと言わない)


入会してみると病気が治る(入会金は安いか只)


たまたま治った病気が信仰のおかげだと勘違いする。


そのうちまた病気になる。


周りから病気になったのは信心が足りないと言われる。


最後に亡くなると周りから信心が足らないから死んだと言われる。





これを読んで馬鹿らしいと思う人は以下も、馬鹿らしいと思うでしょう。


たとえば商売を始めるために土地を購入したが、地元の反対にあい出店できなかったことを悪魔のせいにする人をどう思いますか?


普通の常識があればその商売のイメージが悪く地元の住民の理解を得られなかったと思うのが普通でしょう。




会社のプロジェクトを巡って社員間の仲が悪くなったとしたら反対意見の人を悪魔のせいにしますか?


ただ意見が合わないだけでしょう。




会社の運動会で雨が降ったら悪魔のせいにしますか?


ただ天気が悪いだけでしょう。



日本で宗教が話題になるときは詐欺などの犯罪で、自分で仏教を勉強し冥想を実践していると堂々と言うことができない日本だからこそ、仏教は宗教ではないと言わなければならない状態になっているのかと思います。



世界的に見て何か宗教を信じているのはまともな人間で何も信じていない人間のほうが危険視されると思います。




しかし、日本では何か宗教を信じていると迷信深い騙されやすい人と烙印を押されるような状態です。


お釈迦様は完全に悟って他の人類と比較にならないほど優れた方ですが、分類すれば人間です。



同じようにお釈迦様の教えも他の宗教と比較にならないほど優れた教えですが、分類すれば宗教です。




この理屈さえ分からない人がいること自体が、

私がテーワラーダ仏教は宗教だと思うと言ったら許せない人がいること自体がその人が嫌いな宗教だと証明しているようなものです。(笑)



日本テーラワーダ仏教協会は宗教法人です(笑)



本気でテーラワーダ仏教が宗教でないなら宗教法人に申請しないでしょう。



宗教法人化はスマナサーラ長老自ら進めたことだと、ご本人から聞きました。



東京都が認証してくれるのは協会が宗教だと思うからでしょう。



本題は病気と業についてです。


仏教ではたとえば病気の原因を全て業のせいにはしません。


業、心、時節、食の四つが原因となっています。


宗教ですと業や心を強調します。


もちろん業が原因となることもあるでしょうが原因の全てではありません。


心が全ての原因なら悟った人は病気になりません。


しかし、悟っても病気になりますし最後には死にます。




暑いところに長くいれば熱射病になったり、

寒いところに長くいれ凍傷になったりカゼを引く場合があります。




自然食の健康法などを実践している人は、食べ物が病気の原因だと言います。


悪いものを食べ続けると病気になる確率があがりますが、

たまに少々悪いものを食べても大丈夫な人もいます。



仏教では単純に一つが原因とは見ません。



いろいろな原因が組み合わさって結果が起こります。


病気になるような業を持っていても残りの三つの心、時節、食に気をつけていれば病気にならないかもしれませんし、死ぬような病気も回復するかもしれません。



このようにバランスのとれた見方ができると騙されることはありません。


業とは過去の善、不善の心の思心所のことを言います。


思心所が心所のリーダーのようなものだからです。


簡単に言えば身体や言葉による行為も心が原因となっていますので

その原因となる善、不善の心の力が業となると思ってください。

ですから思心所が潜在力・業となって将来、結果としての業果や異熟心が生じます。



業の働きは具体的に知ることができるのはお釈迦様の知恵をもってできるので


それ以外が、人が病気になったのを直ぐに過去の悪業だとは決めつるべきではありません。


しかし、身体的な苦しみの感覚は悪業の結果だとは言えます。




詳しく知りたい方はアビダンマを勉強しましょう(笑)

2009年7月1日水曜日

思考と妄想


広辞苑より

しこう【思考】

①思いめぐらすこと。考え。

②〔哲〕(thinking)

ア 広義には人間の知的作用の総称

イ 狭義には、完成や意欲の作用と区別して概念・判断・推理の作用をいう。知的直感をこれに加える説もある。



もうそう【妄想】

①〔仏〕(モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。

②〔心〕根拠のない主観的な想像や信念。病理的原因によって起こり、

事実の経験や理論によっては容易に訂正されることはない。


私の言葉の定義は妄想とは①すべての不善心、

②瞑想中は善、不善の取り留めの無い無駄な思考



(アビダンマに興味が無い方は☆まで飛ばして読んでください。)


テーラワーダ仏教では89種類の心があると説かれています。

欲界心54心の中に

不善心12 (貪根心8、瞋根心2、痴根心2)

無因心18 (善無因異熟心8、不善異熟心7、無因惟作3)

大善心8、大異熟心8、大惟作心8


あと色界心15、無色界心12

出世間心8の心があります。


この35心が生じている間は思考しません。



しかし悟ったからといって、ずっと出世間心が生じ続けているわけではありません。


冥想して果定に入っている間は出世間心ですが、普段の心は欲界心です。


欲という字が入っているので悪いと勘違いしないでください。


仏陀や阿羅漢は善心の替わりに惟作心(結果を残さない心)が生じます。


善心は良い結果を与えますが、阿羅漢には良い結果を与える善心は生じず惟作心が生じます。


機能は違いますが意味的には良い心です。


☆☆☆☆☆☆☆



お釈迦様は悟った後、普通に説法していましたが、

出世間心(涅槃を対象として同じ種類の心が生じ続ける)で説法はできません。


仏弟子を指導していましたが出世間心では指導はできません。


説法するときに思考を使いませんか?


悟った人が妄想しているという意味ではありません。


仏陀や阿羅漢は煩悩を完全に取り除いたわけで、思考を完全に取り除いたのではありません。



もちろんヴィパッサナー瞑想中には良い思考であってもするべきではありません。


しかし、ラベリングは思考を使っています。


適切なラベルを思考を使って言語化しているでしょう。


マハーシ冥想センターでも週に一度、外国人向けに法話がありますが、

よくある質問で今の法話中も「聞こえる。聞こえる。聞こえる。」とやるべきですかと聞く人がいますが

サヤドーは「ラベリングしないでしっかり聞いてください。」と答えています。



例えば日常生活で車を運転しているときに、

信号を「見える。見える。見える。」と本気でやるとどうなるか想像してみてください。


信号が変わって反応できるのは思考を使っていませんか?


青、黄色、赤のライトは唯の色であって、青に進めという意味はありません。


本を読んで意味が分かるのは思考を使っていませんか?


文字は紙の上に黒いインクで色が付いているだけです。


人と会話するとき思考をつかっていませんか?


音そのものに意味はありません。


私はとりとめも無く考える妄想を認めているわけではありません。


しかし、日常生活において正しい思考は使うべきだと言っているだけです。


止めるべきなのは不善心です。それを妄想と定義すれば分かり易いと思います。


善心においての思考は問題ありません。


冥想中はたとえ良い思考であれ、無駄な思考にはまらないように注意すべきは言うまでもありません。


凡人が良い思考を止めようと努力すると悪い思考が残るだけです。


正しい実践方法は日常生活において悪い思考を止め、

良い思考を増やしていき、

さらにヴィパッサナー冥想で良い思考でさえも乗り越えることです。




一切の悪を犯さないこと。

善に至ること。

心を清らかにすること。

これが諸仏の教えである。(ダンマパダ)


「一切の思考をなさないこと。これが諸仏の教えである。」ではありません。




スマナサーラ長老に私は日本で活動できるチャンスを与えて頂きいつも感謝しています。

長老の深い智慧からなされる法話の一部をとって批判するつもりはありません。


一部の狂信的な人が、私の発言に長老と少しでも違うと許せない人がいるようです。

少々表現が違おうがその人が何を言いたいのかと考えれば済むことだけですが言葉の表面しか見ない人が多いのは悲しい限りです。




幸せでありますように。


2009年6月29日月曜日

仏像の供養について




お釈迦様や阿羅漢が入滅し遺体を火葬した骨を舎利といいます。


仏舎利は仏塔の中に納められ仏教徒の礼拝、供養の対象となっています。


仏滅後、数百年の間は仏像はなく仏塔や菩提樹などが供養されていたのが、次第に仏像があらわれ信仰の対象になってゆきました。


日本では本尊という言葉がありますが、それは阿弥陀仏などのいろいろな仏や弥勒菩薩などがあるのでその寺で一番大事に供養しているものを本尊と言っているのではないでしょうか。


宗派の最も重要な経典に関連する仏像が本尊になっているのかもしれません。



テーラワーダ仏教では仏陀だけが信仰の対象ですので本尊という必要もないと思います。


例えば本堂に安置しているのが本尊で他の仏像は本尊ではないというのはおかしいと思います。

お釈迦様同士上下はありません。


ミャンマーでは建物や部屋の一番奥にまとめて供養されている場合がほとんどです。


玄関にインテリアのように置くことは考えられません。


以前、西洋人がドアのストッパーに使っていたと書いている本を読んだことがあります。


ミャンマーの占い師は誕生曜日に合わせて仏像の素材を選んであげています。


例えば月曜日が大理石、火曜日が翡翠などのようにです。


水曜日生まれなのですが何製の仏像がいいですかなどと質問しないでください(笑)




以前、小火を出した家に呼ばれたのですが、一緒に行ったある長老が言うには「今、家で供養している仏像が火を呼び込んだので、他の仏像に変えたがいい」と言ったので吃驚しました。


火事の原因にされたらいい迷惑です。


私なら「全焼しなかったのはこの仏像のおかげなので更に大事に供養しなさい」と言いたいぐらいです。


その後、マンダレーにある有名なマハーミャムニ仏は毎日大量の花をお供えしているのですが、そのお供えした花を燃やした灰を固めて作った五頭の象が台座になっている仏像をお祭りすると商売繁盛になると薦めれれたそうです(笑)


ミャンマーでは動物が台座になっている仏像は普通作りません。


金箔を貼った有名な仏像しか功徳がないと思うビルマ人も多いのですが、そのような考えを諌める話をよく聞きます。


ある仏教徒がこれから有名な仏像やパゴダをお参りに行くのを近所の人に自慢しているのを聞いてた老人が、「そんな大きな声で皆に言うんじゃないよ。お前の家で供養している仏像に聞こえるじゃないか。気が引けないの。」と言ったそうです。




本来、仏像などは仏陀の徳を思い浮かべやすくするためにあるもので、本当の対象は仏陀の徳であるべきです。


それが特定の仏像は霊験があり、病気が治り、願い事がかなうなどと訳の分からないことが平気で言われだします。


仏舎利についても私は本物かどうかは気にしません。


偽物を本物と信じる必要もありません。


仏像を供養するように、同じように供養すれば功徳は得られます。


幸せでありますように。

2009年6月22日月曜日

私が無いのであれば、善、不善の業はだれが受けるのですか?


先ず、私とは何かと考えなければなりません。


仏教では車の喩えが有名ですが、車を細かくタイヤ、シート、ハンドル、エンジン、ボディなど部品に分けていくとその一つ一つは車と呼ぶことができないように、私も髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚などに分けていくと、瞬間瞬間、生滅している物質と心を仮に私と呼んでいるといえます。


アビダンマでは、

心    対象を認識する本質、

心所   心と相応して生じる本質

色    温度などによって変化する性質

涅槃   全ての苦の寂滅という性質


の四つを勝義諦(第一義)と呼びます。


ですから勝義諦でいえば私は心、心所、色の集まりです。



不善業である殺生について勝義諦的な説明をすれば

ある心、心所、色の集りの連続が、ある心、心所、色の集りの連続のなかの命根の流れを早く止めたことを殺生といいます。


こんな説明を聞いても分かりにくいので私がある生命を殺したと言えば分かりやすいですね(笑)



私が無いと言うときに、永遠に続いていく実体である真我のようなものを否定しているわけで、普段使っている私という言葉を否定しているわけではありません。


お釈迦様や仏弟子でも私やあなたなどの言葉を使って会話しているわけですから。



普通の私やあなたなど使う説法を    

説示=経蔵(スッタンタ)、律蔵と言い


心、心所、色などの勝義諦を使う説法を 

第一義説示=論蔵(アビダンマ)と言います。

 

過去に犯罪を犯した後に記憶喪失になっても、記憶が無いので私には責任がないといえないように、

仏教でも過去世の善、不善の業が将来の生に影響を与えて、そのときの心、心所、色の流れを仮に私と呼ぶわけです。



ですから私という永遠に続く実体は無く、心、心所、色の瞬間瞬間の流れの中で善、不善の業を行い、その業の結果を将来の心、心所、色の流れである、未来の仮に呼ぶ私が受けると言ってもいいと思います。



幸せでありますように。


2009年6月14日日曜日

久しぶりに質問と答え

①冥想と呼吸についてですが、ヴィパッサナー冥想は自然体で行い、自分で呼吸を速めたり、長くしたりなど、呼吸を勝手に変えたりせずに行う方がよいのでしょうか?


一方、サマタ冥想である「慈悲の冥想」は、呼吸を使って気持ちを高めたり、想像力を豊かに働かせて、自由な感じで行ってよいでしょうか?



ヴィパッサナー瞑想は呼吸をコントロールしないのが基本です。しかし、私は眠いときや考え事が多いときは意識を切り替えるために意識的に腹式呼吸をすることを勧めています。眠い状態でだらだら続けるよりは、コントロールしてでもその状態から抜け出したほうが良いからです。


ただ普通の状態では自然な息によって生じるお腹の動きを観察します。


慈悲の瞑想は、親しい人などのイメージを使って実践します。親しい人たちが幸せそうにしているイメージなどを使ってもいいと思います。呼吸を使って気持ちを高めるという意味が具体的に分かりませんが、特に不自然でなければ悪くないでしょう。




 
②禅定に入定するとは、どのような状態ですか。

また、「冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティ」とはどのようなサティですか。


皆さんが何かに集中しているときに考え事が起こらないように、その何百倍も高いレベルの集中なので入定中は考え事など浮かびません。

禅定に興味がある方はパアッ瞑想を実践している人に聞いてください。

禅定に入れる人が多くいらっしゃるそうです。



冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティとは瞑想中に考え事が生じても生じた瞬間に気づく状態です。モグラ叩きでモグラの頭が出るかで無いかの状態で睨みつけると引っ込むような感じで、しばらくすると睨まなくても出なくなるようなものです。お腹の動きも細かく観察することができます。




③ただ漫然と冥想に入るより、冥想に入る前の心構えのようなものがあれば教えて下さい。


仏法に出会えてヴィパッサナー瞑想を実践できる状態を非常に貴重なことだと思い浮かべ、自分の寿命がいつ尽きるか分からないことを思い浮かべで真剣に瞑想したらいかがでしょうか。

明るく真剣に、うまくいかなくても自己嫌悪に陥らないで、気持ちを切り替えて実践してください。




④冥想中の「昏沈睡眠」と「痴」が、対処に困るという点で、よく似ているという感想を持っています。
 もし、何らかの関連が指摘されているのでしたら、冥想実践には直接関係ないと思いますが、理解を深めるために、教えて下さい。


痴心所はすべての不善心と関係がありますが、痴根心は疑と掉挙です。

昏沈睡眠は貪根心と瞋根心の有行の場合に生じますので心で言えば別物です。

対処に困る点でも完全に根こそぎ取り除くには阿羅漢道でしか取り除くことができない根深いものです。

ただ昏沈睡眠は集中力が高くなれば収まります。


ただ肉体的に必要な睡眠は煩悩ではありません。

お釈迦様でも1,2時間は眠っていといわれています。




⑤懺悔しても罪は残るものと理解していましたが、「滅罪」とはどのような概念ですか。

悪業は善業によって消すことはできません。



悟りの智慧によって過去の悪業を機能しなくすることができるだけです。


アングリマーラ長老が在家のときに多くの殺生を犯しましたが、阿羅漢になり生まれ変わることが無いので、以前なした原因となる悪業は消えたということもできます。


しかし、阿羅漢でも生きている間は、悪業の結果を受けなければなりません。


懺悔をするとは悪業の結果が生じるのを妨害する働きがあり、たとえ生じても弱める働きがあります。


戒律に関してですが、滅罪とは傷が癒されても傷跡が残るようなものです。


傷だらけなのも困りますよね(笑)


幸せでありますように。