先日、大分から車で福岡までの移動中に新興宗教の話になりパターンは同じで騙されているのかと改めて感じました。
ある人が病気になると親切にお見舞いや相談に行き、ちょっと良いところがあるのだけど行きませんかと誘う(新興宗教は自分たちのことを宗教だと言わない)
入会してみると病気が治る(入会金は安いか只)
たまたま治った病気が信仰のおかげだと勘違いする。
そのうちまた病気になる。
周りから病気になったのは信心が足りないと言われる。
最後に亡くなると周りから信心が足らないから死んだと言われる。
これを読んで馬鹿らしいと思う人は以下も、馬鹿らしいと思うでしょう。
たとえば商売を始めるために土地を購入したが、地元の反対にあい出店できなかったことを悪魔のせいにする人をどう思いますか?
普通の常識があればその商売のイメージが悪く地元の住民の理解を得られなかったと思うのが普通でしょう。
会社のプロジェクトを巡って社員間の仲が悪くなったとしたら反対意見の人を悪魔のせいにしますか?
ただ意見が合わないだけでしょう。
会社の運動会で雨が降ったら悪魔のせいにしますか?
ただ天気が悪いだけでしょう。
日本で宗教が話題になるときは詐欺などの犯罪で、自分で仏教を勉強し冥想を実践していると堂々と言うことができない日本だからこそ、仏教は宗教ではないと言わなければならない状態になっているのかと思います。
世界的に見て何か宗教を信じているのはまともな人間で何も信じていない人間のほうが危険視されると思います。
しかし、日本では何か宗教を信じていると迷信深い騙されやすい人と烙印を押されるような状態です。
お釈迦様は完全に悟って他の人類と比較にならないほど優れた方ですが、分類すれば人間です。
同じようにお釈迦様の教えも他の宗教と比較にならないほど優れた教えですが、分類すれば宗教です。
この理屈さえ分からない人がいること自体が、
私がテーワラーダ仏教は宗教だと思うと言ったら許せない人がいること自体がその人が嫌いな宗教だと証明しているようなものです。(笑)
日本テーラワーダ仏教協会は宗教法人です(笑)
本気でテーラワーダ仏教が宗教でないなら宗教法人に申請しないでしょう。
宗教法人化はスマナサーラ長老自ら進めたことだと、ご本人から聞きました。
東京都が認証してくれるのは協会が宗教だと思うからでしょう。
本題は病気と業についてです。
仏教ではたとえば病気の原因を全て業のせいにはしません。
業、心、時節、食の四つが原因となっています。
宗教ですと業や心を強調します。
もちろん業が原因となることもあるでしょうが原因の全てではありません。
心が全ての原因なら悟った人は病気になりません。
しかし、悟っても病気になりますし最後には死にます。
暑いところに長くいれば熱射病になったり、
寒いところに長くいれ凍傷になったりカゼを引く場合があります。
自然食の健康法などを実践している人は、食べ物が病気の原因だと言います。
悪いものを食べ続けると病気になる確率があがりますが、
たまに少々悪いものを食べても大丈夫な人もいます。
仏教では単純に一つが原因とは見ません。
いろいろな原因が組み合わさって結果が起こります。
病気になるような業を持っていても残りの三つの心、時節、食に気をつけていれば病気にならないかもしれませんし、死ぬような病気も回復するかもしれません。
このようにバランスのとれた見方ができると騙されることはありません。
業とは過去の善、不善の心の思心所のことを言います。
思心所が心所のリーダーのようなものだからです。
簡単に言えば身体や言葉による行為も心が原因となっていますので
その原因となる善、不善の心の力が業となると思ってください。
ですから思心所が潜在力・業となって将来、結果としての業果や異熟心が生じます。
業の働きは具体的に知ることができるのはお釈迦様の知恵をもってできるので
それ以外が、人が病気になったのを直ぐに過去の悪業だとは決めつるべきではありません。
しかし、身体的な苦しみの感覚は悪業の結果だとは言えます。
詳しく知りたい方はアビダンマを勉強しましょう(笑)