2009年6月22日月曜日

私が無いのであれば、善、不善の業はだれが受けるのですか?


先ず、私とは何かと考えなければなりません。


仏教では車の喩えが有名ですが、車を細かくタイヤ、シート、ハンドル、エンジン、ボディなど部品に分けていくとその一つ一つは車と呼ぶことができないように、私も髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚などに分けていくと、瞬間瞬間、生滅している物質と心を仮に私と呼んでいるといえます。


アビダンマでは、

心    対象を認識する本質、

心所   心と相応して生じる本質

色    温度などによって変化する性質

涅槃   全ての苦の寂滅という性質


の四つを勝義諦(第一義)と呼びます。


ですから勝義諦でいえば私は心、心所、色の集まりです。



不善業である殺生について勝義諦的な説明をすれば

ある心、心所、色の集りの連続が、ある心、心所、色の集りの連続のなかの命根の流れを早く止めたことを殺生といいます。


こんな説明を聞いても分かりにくいので私がある生命を殺したと言えば分かりやすいですね(笑)



私が無いと言うときに、永遠に続いていく実体である真我のようなものを否定しているわけで、普段使っている私という言葉を否定しているわけではありません。


お釈迦様や仏弟子でも私やあなたなどの言葉を使って会話しているわけですから。



普通の私やあなたなど使う説法を    

説示=経蔵(スッタンタ)、律蔵と言い


心、心所、色などの勝義諦を使う説法を 

第一義説示=論蔵(アビダンマ)と言います。

 

過去に犯罪を犯した後に記憶喪失になっても、記憶が無いので私には責任がないといえないように、

仏教でも過去世の善、不善の業が将来の生に影響を与えて、そのときの心、心所、色の流れを仮に私と呼ぶわけです。



ですから私という永遠に続く実体は無く、心、心所、色の瞬間瞬間の流れの中で善、不善の業を行い、その業の結果を将来の心、心所、色の流れである、未来の仮に呼ぶ私が受けると言ってもいいと思います。



幸せでありますように。