2009年6月14日日曜日

久しぶりに質問と答え

冥想と呼吸についてですが、ヴィパッサナー冥想は自然体で行い、自分で呼吸を速めたり、長くしたりなど、呼吸を勝手に変えたりせずに行う方がよいのでしょうか


一方、サマタ冥想である「慈悲の冥想」は、呼吸を使って気持ちを高めたり、想像力を豊かに働かせて、自由な感じで行ってよいでしょうか



ヴィパッサナー瞑想は呼吸をコントロールしないのが基本です。しかし、私は眠いときや考え事が多いときは意識を切り替えるために意識的に腹式呼吸をすることを勧めています。眠い状態でだらだら続けるよりは、コントロールしてでもその状態から抜け出したほうが良いからです。


ただ普通の状態では自然な息によって生じるお腹の動きを観察します。


慈悲の瞑想は、親しい人などのイメージを使って実践します。親しい人たちが幸せそうにしているイメージなどを使ってもいいと思います。呼吸を使って気持ちを高めるという意味が具体的に分かりませんが、特に不自然でなければ悪くないでしょう。




 
禅定に入定するとは、どのような状態ですか。

また、「冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティ」とはどのようなサティですか。


皆さんが何かに集中しているときに考え事が起こらないように、その何百倍も高いレベルの集中なので入定中は考え事など浮かびません。

禅定に興味がある方はパアッ瞑想を実践している人に聞いてください。

禅定に入れる人が多くいらっしゃるそうです。



冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティとは瞑想中に考え事が生じても生じた瞬間に気づく状態です。モグラ叩きでモグラの頭が出るかで無いかの状態で睨みつけると引っ込むような感じで、しばらくすると睨まなくても出なくなるようなものです。お腹の動きも細かく観察することができます。




ただ漫然と冥想に入るより、冥想に入る前の心構えのようなものがあれば教えて下さい。


仏法に出会えてヴィパッサナー瞑想を実践できる状態を非常に貴重なことだと思い浮かべ、自分の寿命がいつ尽きるか分からないことを思い浮かべで真剣に瞑想したらいかがでしょうか。

明るく真剣に、うまくいかなくても自己嫌悪に陥らないで、気持ちを切り替えて実践してください。




冥想中の「昏沈睡眠」と「痴」が、対処に困るという点で、よく似ているという感想を持っています。
 もし、何らかの関連が指摘されているのでしたら、冥想実践には直接関係ないと思いますが、理解を深めるために、教えて下さい。


痴心所はすべての不善心と関係がありますが、痴根心は疑と掉挙です。

昏沈睡眠は貪根心と瞋根心の有行の場合に生じますので心で言えば別物です。

対処に困る点でも完全に根こそぎ取り除くには阿羅漢道でしか取り除くことができない根深いものです。

ただ昏沈睡眠は集中力が高くなれば収まります。


ただ肉体的に必要な睡眠は煩悩ではありません。

お釈迦様でも1,2時間は眠っていといわれています。




懺悔しても罪は残るものと理解していましたが、「滅罪」とはどのような概念ですか。

悪業は善業によって消すことはできません。



悟りの智慧によって過去の悪業を機能しなくすることができるだけです。


アングリマーラ長老が在家のときに多くの殺生を犯しましたが、阿羅漢になり生まれ変わることが無いので、以前なした原因となる悪業は消えたということもできます。


しかし、阿羅漢でも生きている間は、悪業の結果を受けなければなりません。


懺悔をするとは悪業の結果が生じるのを妨害する働きがあり、たとえ生じても弱める働きがあります。


戒律に関してですが、滅罪とは傷が癒されても傷跡が残るようなものです。


傷だらけなのも困りますよね(笑)


幸せでありますように。