2009年11月26日木曜日

業についての質問

業一つだけが原因でないなら他に何を原因として人生の様々な違いが生まれるのでしょうか?
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


いろいろな原因が重なって一つの結果が生じると言いたいだけで業など関係ないと言っている訳ではありません。
ミャンマーに「自分の善業を信じて毒蛇のいる薮に入るな」という言葉があります。
ヘビースモーカーでも癌になるならないは業果によるからと信じてタバコを吸って癌になったらこれも業果だと思えますか?
もちろん中にはどんなに吸っても癌にならない人もいますが、確率を考えるとリスクが高すぎます。
ここで癌になった原因がタバコ、過去の業、仕事のストレスまた食品添加物や車の排気ガスなど考えることができ過去の業のみが原因だと思うのはどうかと言っているのです。
業と考えるよりタバコが最も大きな原因と考えるのが普通です。

ギャンブルで全財産を無くした人がこれも業果だと言っていたらどう思いますか?
ギャンブルが原因でしょう。

少しアビダンマを勉強したことがある人は今生で行った行為が直ぐに結果を与える現法受業ではないかと思うかもしれません。
この業を拡大解釈するとそれこそ何でも業だけの結果になります。

現法受業の直接原因としては教典にある例は貧乏な人が心の働きが止まる滅定からで出たばかりの阿羅漢にお布施したらお金持ちになった。
阿羅漢の比丘尼を強姦したら地面に飲み込まれたなど特別な場合だけです。

普通の今生で行う行為(業)の今生での結果(異熟)は過去生の業を支持したり、妨害したり、殺害(消す)する、更に将来の生で色々な結果を与える働きをします。

業果だからしかたないと受け身にならず、積極的に善業を積んでいけばたとえ悪業があったとしてもその悪業を妨害し、過去の善業を支持する働きが生じればより良い人生が送れると思います。
細かい業とその結果を理解出来るのはお釈迦様だけだと言われています。
ですからこの程度で納得するしか無いと思います。



例えば、飛行機に乗っていた方は社会の一般的通念からすれば不幸な出来事にあったことになり、そのご家族にとっても不幸な出来事で苦を感じるはずですよね。
自殺する方もまたしかりです。
逆に、幸福や楽を感じる人達も、その原因すべてが過去の自分の業に起因しているわけではないのでしょうか?
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


色々な眼、耳、鼻、舌、身の対象を認識するときの心の流れ(路)の中の異熟心は過去の業による結果です。
何かきれいなものを見た時の瞬間の心は過去の業による結果である心ですから「過去の自分の業に起因している」のとおりですが、その見えたものは自分の業で出来たものではありません。(天界なら別ですが)



邪見から来る屁理屈かもしれませんが、お釈迦様はすべてのものが無常・苦・無我だとおっしゃったということは、業もまた無常で無我だったりするのでしょうか?
なのでひょっとして、「私の業」などというものは存在しないとか…。
(テーラワー仏教仏教協会会員 東京のTさん)


業も法則に従って働いているだけで無常です。しかし法則(法)は無我であって無常でありません。
熱湯に長く手を突っ込んだら無常だから時々火傷して、時々火傷しない訳ではありません。

「私の業」は「私」は勝義諦では存在しませんが「業」は存在します。

12月12日大分の勉強会、19日の東京アビダンマ講座は業の話しになりますので興味のある方はご参加ください。

2009年11月24日火曜日

自殺などの質問

1)死ぬ間際の「心」の状態が、次の「心」を作って、その「心」が自分にあった「物質」(六道のいずれかの生命)を作る、という考えは正しいでしょうか?
(仙台のYさん)




死ぬ間際の心の流れの中の速行心が過去、現在の善、不善の業を所縁として生じます。

例えば臨終速行に過去の殺生を所縁として不善心が生じれば不善異熟心によって地獄、畜生、餓鬼、阿修羅のどれかの世界に結生します。

同じく布施、持戒、瞑想などを所縁とすれば善心が生じ善異熟心によって人、天などの善趣に結生します。

質問の「次の心」とは結生心(その生の中で一番最初に生じる心、有分心)だと思いますが、それが自分にあった体を作るという表現は間違いとは言えませんが、過去の善、不善の業によって心の小刹那ごとに業生色(業によって生じる物質)を生じさせるが正しいと思います。

結生心それ自体は心生色は生じさせません。その次の心からすべての生位の刹那に心起因色(心生色)を生じさせます。

業によって犬に生まれ変わったならば犬の生の中でいきなり猫にならないのは業による色によるものです。

アビダンマでは業、心、食(滋養素)、時節などが物質をつくると言えます。

DNAの例えはあまり正確ではないので削除しました。




2)自殺したならば、来世は地獄に行くのでしょうか?
(仙台のYさん)


よほど修行した人や聖者でない限り善趣に転生するのは難しいでしょう。必ず地獄に行くとは言えませんが。常識的に考えて自殺する人の自殺する前の精神状態が良いとは思えないので臨終速行心が不善心になる可能性が高く、そうなれば必ず悪趣に落ちます。





3)自殺するという行為も、今まで(過去世、現世)の「業果」でしょうか?
 それとも現世だけの業果ですか?
(仙台のYさん)

仏教ではすべての原因が業一つだけだと考えるのは邪見に入ります。
寿命を全うせず途中で亡くなるという業があったとしても今生での選択で自殺しないかもしれません。

たとえ乗っていた飛行機が落ちて死んだとしても業一つだけが原因ではありません。


2009年11月23日月曜日

註釈・復註釈書が作られた場所

アビダンマッタサンガハの勉強会を行っていますがこのテキストはセイロン(スリランカ)で書かれたもので著者はアヌルッダ長老です。

そのアビダンマッタサンガハを解説している復注釈書アビダンマッタウィバーワニーは同じくセイロン(スリランカ)のスマンガラ長老が書いたものです。

ビルマがイギリスの植民地時代の前後にレーディーサヤドー(ウ・ニャーナ)という学問や瞑想実践共に有名な長老がアビダンマッタウィバーワニーに間違いが多く使えないテキストだとパラマッタディーパニー復注釈書を書き批判したときから30年近く保守的なビルマの大長老と議論が続き、結果は保守派の意見に従い大切なテキストとして仏教の国家試験の中級までの範囲に含まれるほどになっています。

ビルマで書かれたマニサーラマンジューサーという註釈書もありますが、アビダンマにおいては特に先にあげたセイロン作の二つのテキストが重要視されています。

ブッダゴーサ大長老はインド出身だと云われていますが、皆さんご存知のとおり大寺においてシンハラ語で書かれた注釈書をパーリ語に翻訳、編纂した方です。

詳しくは学者のいろいろな研究を参考にするといいと思いますので図書館などで読まれたらいかがでしょうか。
その一つに



アビダンマッタサンガハやその註釈の記述に現代の科学的知識からみておかしいものが出てくるとビルマ人の長老が勝手に註釈していると思うのは勝手ですが根拠がない批判のような気がします。

ウ・ウェープッラ長老と戸田忠先生が訳註したテキストにはp.310より註釈文献が記述してありますのでそれで自分でご確認ください。

幸せでありますように。


2009年11月16日月曜日

非我と無我の違いとは

非我と無我の違いをパーリ仏教文献学者がどう考えているか別として考えてみたいと思います。

まず非にしたい学者の気持ちは分かりませんが永遠不滅の我というものはないがそれ以外の我があると言いたいのかもしれません。

無我ですと例外なしに我はないという意味になると思います。

テーラワーダ仏教的にみるとただ単に勝義諦と世俗諦の違いが良くわかっていないだけのような気がします。

私の勘違いならごめんなさい(笑)

勝義諦からみれば名・色だけであって人や男、女、私やあなたなど存在しません。
ですから無我です。

世俗諦からみると常識的に私やあなたは存在します。

私やあなたがないなら私の物やあなたも物など存在しないので、だからと言って人の物を取ったら泥棒で捕まります。
他人の奥さんも同じです(笑)

しかし世俗諦であっても仏教では永遠不滅の我というものは存在しないということで我に非ずでしょうか?

菩薩がディーパンカーラ仏陀のもとで誓願し四大阿僧祇劫と十万世界の長い間、仏陀になるために十波羅蜜を積んできました。

その中で布施波羅蜜が一番最初ですがお布施をするとき「この功徳によって一切智者である仏陀になりますように」と願って功徳を積んだといわれています。

これって取引ですか?(別な質問の答えです)

ミャンマーではお布施の功徳によって生まれるたびに仏教に出会って幸せなになり、最後の生に阿羅漢果を得ることができますようにと祈願します。


これは永遠不滅の我が功徳を積み続けているわけではありません。

子供の時から現在まで私という感覚が続いているだけで今生においても永遠不滅の我が在るわけでもなく、生まれ変わるときに新しく生じるわけでもありません。

「無我だと輪廻なし」というようなステレオタイプを当てはめるのはそろそろ止めてほしいものです。
テーラワーダ仏教ではそれを断滅論の邪見といいます。

幸せでありますように。



2009年11月13日金曜日

お酒をやめられない方へ


日本人にとってお酒を飲まないことが五戒中最も難しいという意見を聞きます。
私も在家のとき毎日飲んでいたので偉そうなことは言えないのですが飲んでいたときは本気で酒を飲まない男はつまらないやつだと思っていたことがあります。(笑)

今回、本町のアビダンマの勉強会の後、ジュンク堂によって見つけた本は非常にお勧めです。
たばこ、お酒、ギャンブル、不倫からカルト宗教まで網羅し依存の構造への気づきによる自由をもたらしてくれる一冊だと思います。

この本でテーラワーダ仏教は止めないでください(笑)

2009年11月5日木曜日

本物の舎利ですか?

分かりません(笑)

しかし、仏教で供養すると功徳がある対象は

仏陀、阿羅漢、輪転王の舎利
Dhatu ceti

仏陀が生前使用していたもので菩提樹、衣、杖、水漉しなど受用物
paribhoga ceti

仏陀を思い浮かべるための仏像などです。
uddissa ceti

仏像は石や木などでできており本物の仏陀ではないのは誰でも知っていますが、本物でないのでなぜ供養しているのですかと聞く人は仏教徒にはいないと思います。

他宗教の人は偶像崇拝だと非難するかもしれませんね。

舎利が本物かどうかは神通力がある人なら分かるかもしれませんが普通わかりません。

由緒あるお寺に祭られている舎利だから本物だという信じることもできますが、それも疑いだせばきりがありません。

DNA鑑定などすると面白いと思いますが古さはある程度わかりますが本物どうかはわかりません。

100パーセント只の石である仏像を供養する人が本物の可能性0.01パーセントでもある舎利を供養しない理由は私には見当たりません。

0.01の数字に深い意味はありませんが(笑)

もし偽物でも大阿羅漢の徳を思い浮かべるためのuddissa cetiにはなりますので個人的には問題はないと思っています。

仏像や舎利を礼拝供養することは布施、持戒、修習、尊敬、作務、回向、随喜、聞法、説法、見直業などの十善業事のなかの尊敬や布施になりますので行わない理由はありません。

瞑想の実践が最高の功徳ですが機会があるごとに他の善業も行うべきだと思います。


幸せでありますように



2009年11月4日水曜日

菩提樹と舎利












































11月3日に会員の関さん、小山さん、広瀬さんが越冬用の菩提樹用のビニールハウスを設営してくれました。菩提樹の周りにも石で囲んで頂きました。
ありがとうございます。

会員の田代さんがミャンマーに行ったときにある寺院で頂いた舎利をアラナ精舎にお布施してくれました。

仏舎利ではなく大阿羅漢の舎利です。
サーリプッタ尊者(智慧第一)、モッガラーナ尊者(神通第一)、シーヴァリ尊者(利得第一)、バークラ尊者(無病第一)の舎利です。
写真

スダンマ長老よりスリランカ製の舎利塔をお布施していただきました。

幸せでありますように。