2009年5月20日水曜日

先祖供養の偈、神々、護経、ラベリング

「先祖供養の偈」がありますが、上座部仏教においては、「先祖」とはどのようなものとされていますか。上座部仏教では、全ての存在は過去生において、家族など親しい間柄だったはずとされているようですから、「生きとし生けるもの」に対する慈悲の念を持つこととの違いがあるのでしょうか。


餓鬼界に転生した親族(先祖)などに回向するのは残されたものの努めだと言われています。

ご指摘のとおり長い輪廻の中で親族にならなかった生命はいないとも説かれていますので全ての生命の回向すればいいのは事実ですが最初に対象を指定して、次に指定せずに回向するのが普通です。

回向は自分の積んだ功徳を分かち合う、向けるもので、慈は幸せを願い、悲は苦しみから逃れるのを願うことです。


「回向の文」にある「神々」とは、具体的に対象は特定されるものでしょうか。日本の「八百万の神」は含まれるのでしょうか。(あるいは、お釈迦様が対話されていたという「神々」に限定されるでしょうか。)


日本の神は別として他の宗教の神々が随喜するか分かりませんが外す理由は考えられないので含まれると思います。


護経(パリッタ)は、どのように解釈すれば宜しいですか。無形の「お守り」のようなものですか。

比丘が森なので修行するときに色々な障害がないようにと釈尊が許可したものです。

それぞれの護経に各々の功徳があります。

詳しくは南方仏教基本聖典p.12をご覧ください。

南方仏教基本聖典




本経は、古くからセイロン、ビルマ、タイなどの東南アジアの仏教徒にパリッタと呼ばれ親しまれてきた護呪経である。一般の人々にとって高い教えがはるか彼方にあるのに対し、これは現実の生活における幸福(吉祥)を願う、あるいは危険から「身を護る」ために好んで唱えられ、また比丘の間でも「自護呪」として災厄から身を守る場合のみ、その使用が許されたものである。・・・

 「ラベリング」は「補助手段」であるとは、冥想法を調べれば指摘されていることですが、「言葉」を使って、「見えている」や「痛み」などを表現しなくても、それに「気づいて」いれば大丈夫ということでしょうか。
 例えば、冥想について知っていない人でも、立ち振る舞いのきれいな人、丁寧な人というのはいるもので、このような人の場合、言葉でラベリングしていなくても動作を真剣に、精密に行っていれば、「気づき」をしていることになるのでしょうか。

理論上はただ気づいていれば大丈夫ですが、マハーシ長老は大雑把(気づきは丁寧に)にでもラベリングを続けるようにと指導しています。

例えば足を上げるときに「上げる」「上げる」「上げる」「上げる」「上げる」などと何度も入れることが出来ますが、実際に上げ始めから終わりまで丁寧に気づいていれば「上げる」と一度だけで十分です。

考え事が多い人は何度も入れると集中しやすいかもしれません。

ラベリングしていなくても動作を真剣に、精密に行っていれば、「気づき」いえますが完全に必要ないと否定せずに使えるものは使った方がいいと思います。

冥想をした方は分かると思いますが、どんなにゆっくり身体は歩いていても心はさ迷うものです。

立ち振る舞いが綺麗だからといって「気づき」が必ずあるとは思いませんが、バタバタ動いている人より「気づき」がある確立は高いと思います。

ラベリングを料理を食べるときの箸に例えます。

大事なのは料理を食べること(気づき)ですが、箸その物は食べれません。

ラベリングを非難する人は箸を使うと正しく料理を食べることが出来ないと言っているようなものです。

どのように食べようが栄養になると思います。

幸せでありますように。