ご存知とおり仏教は色々な宗派があります。
法華経を信じる人のように本当に釈尊が伝えたかったものが法華経だと言い出したら、同じように何でも好きに言えます。
新興宗教のパターンは伝統的な宗教を正しく解釈できるのは自分の教祖だけで、それ以外を全て否定するのが特徴です。例えばエホバの証人は正しいのは自分たちだけで伝統的なキリスト教や政府は全て悪魔の影響下です。他にも最終解脱者や仏陀の生まれ変わりだという教祖もいます。
テーラワーダ仏教でも色々な解釈があります。
同じミャンマー仏教で同じでパーリ経典や注釈書を元に指導しているマハーシ冥想法を間違った方法だと非難する長老がいます。
例えばパアゥ・サヤドーが最近では有名です。
大きな論点は集中力のレベルにあります。
パアゥ・サヤドーは悟るには最低第一禅定に到達していないと悟ることは出来ないという意見です。
マハーシ長老は禅定に入れればベストだが、達しなくとも近行定(禅定に入る手前)に達すれば五蓋などを抑えることが出来るので第一禅まで達しなくとも悟ることが出来るという意見です。
ヴィパッサナー・ジャーナというのはこの近行定のことです。
サマタ冥想を通して作るのでなくヴィパッサナー冥想、連続したサティの実践を通じて作り上げるものです。
一度この状態に達したら後戻りしないかは私は分かりませんがサマタの禅定よりは崩れにくいということを聞いたことがあります。
定(ジャーナ)は普通、初禅などの安止定の意味ですが、冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティで五蓋が抑えられた状態をヴィパッサナー・ジャーナといいます。
どちらも一度ぐらいそのような状態になっても常に冥想しないと、また入るのは難しいでしょう。
五自在は普通、初禅などの安止定に使う言葉です。
他にラベリングを使うとヴィパッサナー冥想にならないなどの非難もあります。
パアゥ・サヤドーの意見も一部は正しいのですが、だかといってマハーシ長老の指導法が間違っているとは私は思いませんし、マハーシ長老の指導法は、ほとんどのミャンマーの大長老たちも認めている指導方法です。
しかし、少数ですがパアゥ・サヤドーのように認めない人もいます。
私はパアゥ・サヤドーの意見が好きな人はパアゥ・サヤドーの冥想方法を実践すればいいだけで、マハーシ長老の指導方法が好きな人はそれを実践すればいいだけです。
ただ非難するときはその非難する人がどのような意図で指導しているかを理解するようにすれば、その指導者なりの理論がありますので自分はその理論が嫌いでもそれなりに理解できるとおもいます。
私はパアゥ・サヤドーの意見は好きではありませんが、サヤドーの理論は理解できます。
だからといってマハーシ長老の指導方法が間違いだとは思いません。
ではどのように判断すればいいのでしょうか?
テーラワーダ仏教徒はパーリ経典や注釈書でどのように説かれているか確かめる必要があると思います。
もしマハーシ長老の指導が経典からずれていたら多くの大長老方が認めるはずは有りません。
私はマハーシで出家したので肩を持つわけではなく、マハーシ長老の本がパーリ経典や注釈書と違うところがなく納得できるからです。
協会のホームベージにヴィパッサナーQ&AのPDFに詳しく説明されていますのでご覧ください。
私はパーリ経典や注釈書を一字一句全てが正しいと思うような原理主義者ではありませんが、ミャンマーで出家したテーラワーダ比丘として伝統的な解釈は尊重しようと思っています。
もし、自分では信じられないところがある場合は、伝統的にはこのように解釈されていますが私はどうかと思うなどと説明します。
もし伝統的な説明無しで伝統的でない自分の意見を述べれば、聞く人はそれが伝統的な解釈だと勘違いするからです。
そして違う僧侶が伝統的な解釈を説明したら、その伝統的な解釈を間違いだと思いうかもしれません。
伝統的な解釈を取るか取らないかは本人の自由です。伝統的ではないからと言って間違いだとは思いません。
私はアビダンマなどを詳しく勉強する前はマハーシ長老の批判をされると、非常に怒りがこみ上げていました(笑) 多分、マハーシ長老ご本人は非難されても怒りなどは起こらないと思います。
日本にも「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」みたいな言葉があったような気がします。
勉強するメリットの一つは色々な見方が出来ることです。
テーラワーダ仏教の教義はダムの堤に例えられます。
小さい穴でもそのままにしておくとダムの決壊を招きます。
自分の意見で伝統的な解釈を否定しダムに穴を開けるのは差し控えた方がいいと思っています。ただ現代人には信じられないところはその時代の文化などの影響をうけたものだと理解すればいいと思っています。
以前、ブログでも書きましたがバイキング料理のレストランに行って自分の嫌いな料理があっても取らなければいいだけで、残りの料理を楽しめばいいだけです。
パソコンのエクセルに詳しい人がエクセルの入門書を読まないからといってその人が、その入門書の価値が無いといっているわけでありませんし著者を侮辱する意味はありません。
初めての人には大変役に立つと思いますし、中級者以上でも参考になるところがあるかもしれません。
パソコンが少し詳しいからといってだれでも書けるわけではなく、分かりやすい入門書を書くのは大変な能力が必要ですので大変尊敬できます。
ブログやコメントで何か不愉快な表現がございましたらお許しください。
特定の個人を非難するつもりはありません。
何か問題を指摘してくれる人を仏教では有難く思うのが伝統です。
サーリプッタ尊者は小僧が衣の乱れを指摘したとき、喜んで直したように、私もいつでも直すつもりはあります。在家の人であろうがお気づきの点がございましたらお知らせください。
それぞれの戒、定、慧の実践が最も大切だと思っています。
教条主義を振りかざしたいわけでは有りません。
もし私にミャンマーのテーラワーダ仏教の伝統と違うものがあればご指摘ください。
正しい指摘であればいつでも喜んでお受けいたします。
私が信じられないなら九州の平和パゴダや茨城の大洋村に学問を積んだ大長老がいますので確認ください。
スマナサーラ長老のように自由自在に説法できる智慧は私にはありませんが、自分なりに工夫して誤解を生まないように布教活動を続けたいと思っています。
こんなブログでも面白いといってくれる方がいるのが救いです。
たまに更新したらお付き合いください。
幸せでありますように。