転法輪経に三つの渇愛が説かれています。
① 五欲への渇愛 (kæma ta¼hæ)
② (常見を伴う)存在への渇愛 (bhava ta¼hæ)
③ (断見を伴う)虚無への渇愛 (vibhava ta¼hæ)
渇愛とはのどが渇いているとき水を欲するように色々な対象に対する貪欲です。のどが渇けば水を飲めばおさまりますが、塩水を飲んでもさらにのどが渇くように欲を満たすことは根本的な解決にはならないといわれています。
① 五欲への渇愛
色声香味触の五つの対象への欲です。性欲の意味だと思っている人がいるかもしれませんが性欲も触れる感覚が中心の欲ということもできます。金銭欲も権力欲もそれを得ることによって五欲を満たすことができるのが大きい原因の一つだと思われます。
② (常見を伴う)存在への渇愛
伝統的な説明は色界、無色界に生まれたいという欲です。人、天(欲界)に生まれたい渇愛は①番に入れます。欲界に生まれて五欲を楽しませたいからです。
常見とは永遠な魂などを信じることです。色界、無色界などに生まれれば永遠に生き続けることができるという常見を伴った渇愛です。
色界とは色界禅定を得た人が生まれ変わる世界です。精妙な物質はありますが法を聞くための耳と仏陀を見るための目があるだけで香、味、触を感受する鼻、舌、身などの物質(浄色)がありません。
(色界の中に無想有情界という心がない物質だけの世界もあります)
無色界は無色界禅定を得て人が生まれ変わる世界で物質のない心だけの世界です。
③ (断見を伴う)虚無への渇愛
断見とは死んだら終わりだという邪見で、この渇愛は死んだら虚無であって欲しいと渇愛することです。
色々と悪いことをしてきた人は悪い世界に生まれ変わって苦しみたくないのでこの渇愛があります。
自殺したい人は断見をもって死んだら今の苦しみがなくなると思い自殺するかもしれませんが自殺するのは怒りです。欲ではありません。破壊欲も破壊したいのは怒りで欲ではありません。
善心、不善心に関係する意欲(chanda)は欲(lobha, ta¼hæ)ではなく、貪欲(lobha)と瞋恚(dosa)は同時に生じません。
当然、預流道で全ての邪見を取り除いても生に対する渇愛があるから生まれ変わるわけですが、その場合は邪見を伴わない欲になります。
【性欲と金銭欲についての質問】
普通在家生活を送る上で五戒に触れなければ問題はありませんが、五戒に触れなくても不善心が生じている可能性は高いです。ですから月に何度か八戒を守ってたとえ夫婦間でも性行為をしない日を設ける習慣があります。
性欲に対する修行法は不浄観です。人の身体はばらばらにしていくと、その一つ一つは執着に値しません。
日常読誦経典p.46 、南方仏教基本聖典(大念住経p.87不浄観察の部・p.89九種の墓場の部)
ヴィパッサナー瞑想を実践すれば浄も不浄もなくただ観察するだけですが、性欲が強い場合は反対の概念で対処します。
アーナンダ尊者が女性とどのように接するべきかと質問したことがあります。(大涅槃経)
答えは
1.見るな 2.話すな 3.それができないなら自分の母や姉だと思って接しなさい
ある長老の話ですが男と女は磁石のプラス、マイナスみたいなもので近づけると引き寄せられてくっついてしまう。出家者も磁石のようになって還俗する場合が多いと(笑)
金銭欲については強欲が問題で、正しい仕事で収入を得ることは正命(正語、正業によって収入を得る)になります。その得られたお金を自分だけで使うのではなく他の人々に与えるようにすればいいと思います。貧しい国では少しのお金でも命がたすかり、子供たちが勉強できるようになる手助けをすることが出来ます。仏教の布教のためにお布施することは言うまでもありません。
お釈迦様が在家に対して布施、持戒、生天(良い世界に生まれる)、欲の欠陥(離欲)、涅槃への道と段階を追って説法します。
在家の方が普通に五欲を楽しむのは問題ないと思いますが、渇愛というようにいくら満たしても完全な満足は得られないことを理解して、離欲を楽しむことも必要だと思います。
幸せでありますように。