2009年2月13日金曜日

殺生について

「仏教的生き方入門」ソフトバンク新書p.82という本の中にチベット仏教の正式な考え方か分かりませんが気になったことがあるのでご紹介します。

気になる箇所はチベット人が魚を食べない理由として同じ生命を殺すなら大きなヤク(ウシ科)を殺して食べたほうが肉の量が多く皮やなどの他の部分も使える、どうせ同じ殺生をするなら同じ一つの生命なので大きい方が良いなどです。

皆さん、これを読んでどう思いますか?

 

テーラワーダ仏教的な見方をすると少し視点がずれているような気がします。

ミャンマーでは牛を殺して食べるのを非常に嫌う長老が多くいます。神の化身と思っているわけではありません()

理由は日本人にはあまり理解できないかもしれませんが、牛は畑を耕すときや荷物を運ぶときなどに今でも使われています。自分たちが生きていくのに非常に恩が有る牛を殺して食べることを恩知らずということです。年取った牛は働かせないで天寿を全うするまで世話をします。当然全てのミャンマー人がそうしているわけではありませんが、有名なレディーサヤドゥは信者たちに牛肉を食べない誓いをさせたそうです。

 

蚊を殺すのと阿羅漢を殺すのは同じ生命でも罪の重さが違います。阿羅漢を殺せば今生でも殺人罪ですし仏教では来世で必ず地獄に落ちるといわれています。

同じ殺生でも殺すときの怒りや努力の量、殺す生命の徳の高さや恩のあるなし、体の大きさも罪の重さに関係してきます。

同著にもありましたが、無意識に痒くて蚊を殺すのと怒りを持って叩き潰すときの罪の重さは違います。(殺意)

仏教で説く物質の最小分子の中に命根がありますがその数の多さもかかわります。(体の大きさ)

同じ人間でも戒を守っているなどの違いがあります。(徳の高さ)

自分の両親、阿羅漢などに関しては殺意のあるなしに関係なく重罪になります。

特に現代で気をつけるべきなのは末期医療時の治療継続を止めさせる決断をすると、これに関係する可能性が高いので避けるべきです。

 

魚を殺すより大きいヤクを殺すときは大変な努力が必要だと思います。

生命の数と一度の殺生の悪業の深さとどちらを取るか難しいですが、基本的に仏教では肉食自体を否定しているわけではなく(浄肉:直接自分のために殺生するのを見たり、聞いたり、疑いが無い)魚を食べるから多くの殺生を助長させているという見方はしません。

 

何を食べていても、食べ物は体を維持するために頂きそのエネルギーを使って善心を育てるが一番です。