2009年2月25日水曜日

仏像について②



 

 




仏像の写真などをゴミ箱に捨てないほうがいいと以前書いたことがありますが、自分が大事にしている仏像や写真などを死んだ後、家族がどう扱うか心配なので生前にどの様に準備するべきかと質問がありました。

(直接、質問を聞いていませんので勘違いしていたらお許しください)

ミャンマーで古い壊れた仏像やパゴダをどの様に扱うかご紹介いたします。

日本ですと文化財などはなるべく同じ素材や技術を使い修復しますが、そのような技術やお金もないミャンマーでは(信仰の対象で文化財だと思ってないのでしょう)今ある材料を使い修復しているのが現状です。バガンの遺跡はユネスコが関係していたので状況は違うと思います。1200年ぐらい前のパゴダを見に行ったことがありますが、修復に現代、普通に使っているレンガとコンクリートを使っていました。昔のレンガはサイズが大きく日干しだと聞いたことがあります。

他にも元の形になるべく修復するのが普通だと思いますが、私の知っているサヤドーは800年前の仏像のデザインを自分の好みで変えていました()

第二次世界大戦中に壊れた大仏(坐像)を戦後修復し寝釈迦にしています。(写真)


問題は悪意を持って壊すことです。ですから信心が無い人が写真などを捨ててもそれほどひどい悪行になるとは思えません。本人にとってはただの写真でしょう。

それならタリバンがバーミヤーンの大仏を破壊したのはどう見るべきでしょうか?

彼らは偶像を破壊すべきだというイスラム教の教えに従ったようですが、同じイスラムの指導者が止めるように言っているにもかかわらず、聞かなかったのは怒りからの行為だと解釈できるかもしれません。

破壊したいような強い怒りは業道になります。

 

もし修復できないぐらい壊れている場合は、再利用できる材料は使い、残りの石などを誰も踏まないような高いところにまとめて安置します。仏像の写真なども燃やして誰も踏まないような所に灰を収めれば良いと思います。日本でしたら川に流すのも良いかもしれません。残された家族が仏像を捨てるようならお寺にお布施すれば良いと思います。

 

ある宗教は輸血をすると1000年王国に再生できないと思い、輸血を拒否して亡くなる方がいます。その教えを信じていない私などは、輸血したぐらいで行けない世界は行きたくもありませんが信者にとっては大問題です。仏教を信じる、信じないに関わらず、善因楽果、悪因苦果の法則ですので貪欲、瞋恚、無知を生じさせないように努力し、欲から離れ、慈悲の心や知恵を育てていけば何の心配もありません。たとえ死んだら終わりだとしても今生で幸せになりますし、来世があれば悪い世界に再生することもないでしょう(笑)

幸せでありますように。

2009年2月20日金曜日

殺生について②


 

生命は平等だが殺生する生命の徳によって罪の重さが違うというのが納得できないとの意見がありましたので、簡単に説明いたします。

生命が平等だと本当に実感できて全ての殺生を避けることには疑問は無いと思います。ここでの論点は、虫は徳が無いから殺していいというわけではありません。全ての生命は幸せに生き続けたい願いがあり、自分も殺されたくないのと同じように他の生命も殺されたくありません。ですから全ての生命に対して平等に慈悲の心を育てようと努力するべきです。

常識的に考えてください。殺人と蚊を殺すのが同じ罪ですか?

殺人は罪が重いと認めることと、だからといって蚊を殺していいという理屈はではありません。

 

業道(その業が結果を与えれば地獄、餓鬼、畜生、阿修羅に再生する。阿羅漢になるまで潜在力が残る)

になる殺生の条件

1.         仏教でいう衆生、生きてる生命(植物、ヴィールスは含みません)

2.         それが生きていると知っている

3.         殺そうという殺意

4.         殺す努力(人に命令しても同じです)

5.         努力によって死亡すること

5番が入らないと殺生にならないのは言うまでもありませんが、全てが揃わなくても悪行になります。

悪い行為ですので苦しい結果は将来起こります。

 

アングリマーラの話は聞いたことがある人が多いと思います。

彼は多くの人を殺しましたが、最後に自分の母親を殺しに向かっているとき釈尊が途中で説法し救われました。

なぜもっと早く行って説法しないのかと突っ込まれそうですが、母を殺すと今生で悟ることが出来ず来世で必ず無間地獄に落ちると註釈しています。ですからご存知とおり、その後アングリマーラ長老は修行して阿羅漢になりました。

 

猟師が獲物を撃とうとして、狙いがはずれて、自分の両親に当たって死んだら重業(次生で必ず無間地獄に再生する)なると註釈しています。

獲物には殺意があっても、両親に対しては殺意がありません。刑事事件としても過失ですが、それなりの罪はあると思います。伝統的な註釈を信じてきわどいことは避けるべきだということです。

あるアビダンマに詳しい長老に質問したところ、彼は重業にはならないという意見でした。

 

最近読んだ本で、奥さんが交通事故で植物状態?になりもう快復の見込みはないといわれていたのが、病気の奥さんにベッドでいつも話しかけをして、あきらめずに延命治療をしていたら快復したという話もあります。もしその時、あきらめていたら生きている人を死なせたことになります。

現代の過剰な末期治療は問題があると思いますが、金がかかるから止めるという理由ではなく、医学的な判断を医者にしてもらって、判断は医者に任せたほうが無難だと思います。医者も家族が了解しないといけないのなら、本人の意見を生前から聞いておいて医者に伝えればいいかもしれません。

 

 

2009年2月19日木曜日

28過去佛を念じる護経

今月の東海ダンマサークルの使ったものですが

参考にとなればと思いご紹介します。

仏教の世界観になりますが、釈尊が悟られるまでいかに長い間、

パーラミーを積んできたか説明するために必要な劫という長さがあります。



 

寿劫(人界の寿命)

仏陀の時代 100年 2500÷100=25
現在 75年になりますが今の時代は教義的には寿命が少なくなっている時代です。

なぜなら仏陀は寿命が減っていく時代に現われるかだそうです。

現代は医療技術や幼児の死亡率が下がって平均寿命が延びているようですが

寿命自体は75歳ぐらいでも不思議ではありません。

釈尊が望めば劫の間生きられるというのも寿劫のことです。

中劫(減劫+増劫)

減劫 人寿阿僧祇歳より100年に1歳づつ減少10歳まで
増劫 人寿10歳より世代ごとに倍僧し人寿阿僧祇歳まで

人寿阿僧祇歳という言葉は寿命が数え切れないぐらい長くなることです。

そしてどんどん減っていき最後には10歳まで落ちます。それからまた増えていくようです。

阿僧祇劫(中劫×64)

紛らわしいのですが人寿阿僧祇と違って別な単位です。

これを4倍すると世界の生、住、滅、空という単位になります。

大劫 世界 阿僧祇劫×4
成劫 住劫 壊劫 空劫(中劫×64)×4=世界

 

仏教では輪廻に始まりは想定しませんが、菩薩がどれぐらいパーラミーを積んだかを

ティーパンカロー仏陀から世界で数えると4大阿僧祇劫と10万になります。

大阿僧祇劫は大が付いていて阿僧祇劫とは違います。世界を阿僧祇倍した単位です。

菩薩はいかに長い間パーラミーを積んだかを思い浮かべ、その長い間に釈尊を含め25仏しかあらわれず

多くの世界が空世界という仏陀が現われない世界です。

一つの世界に仏陀が一人、二人、三人、四人、五人現われたり、または現われなかったりします。

(同時ではありません)

現在の世界は五人現われる世界で現在の仏教が無くなった後、減劫のときに弥勒佛が現われる予定です。

ティーパンカロー佛の世界も仏陀が四人現われた世界です。

 

タンハンカロー、メーダンカロー、サラナンカロー、ティーパンカロー-(大阿僧祇劫)

コンダンニャ-(大阿僧祇劫)

マンガラ、スマナ、レーワタ、ソービタ-(大阿僧祇劫)

アノーマダッスィー、バドゥマ、ナーラダ-(大阿僧祇劫)

パドゥムゥタラ(10万世界前)-(69999空世界)

スメーダ、スジャータ(3万世界前)-(1199空世界)

ピヤダッスィー、アッタダッスィー、ダンマダッスィー(1800世界前)-(1705空世界)

スィダッタ(94世界前)-(1空世界)

ティッサ、プッサ(92世界前)-ヴィパッスィー(91世界前)-(60空世界)

スィキー、ヴェッサブ(31世界前)-(30空世界)

カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパ、ゴータマ

 

いかに仏教に出会うのが難しいか理解し、その貴重な機会を逃さずに功徳を積めればと思います。

幸せでありますように。

2009年2月13日金曜日

殺生について

「仏教的生き方入門」ソフトバンク新書p.82という本の中にチベット仏教の正式な考え方か分かりませんが気になったことがあるのでご紹介します。

気になる箇所はチベット人が魚を食べない理由として同じ生命を殺すなら大きなヤク(ウシ科)を殺して食べたほうが肉の量が多く皮やなどの他の部分も使える、どうせ同じ殺生をするなら同じ一つの生命なので大きい方が良いなどです。

皆さん、これを読んでどう思いますか?

 

テーラワーダ仏教的な見方をすると少し視点がずれているような気がします。

ミャンマーでは牛を殺して食べるのを非常に嫌う長老が多くいます。神の化身と思っているわけではありません()

理由は日本人にはあまり理解できないかもしれませんが、牛は畑を耕すときや荷物を運ぶときなどに今でも使われています。自分たちが生きていくのに非常に恩が有る牛を殺して食べることを恩知らずということです。年取った牛は働かせないで天寿を全うするまで世話をします。当然全てのミャンマー人がそうしているわけではありませんが、有名なレディーサヤドゥは信者たちに牛肉を食べない誓いをさせたそうです。

 

蚊を殺すのと阿羅漢を殺すのは同じ生命でも罪の重さが違います。阿羅漢を殺せば今生でも殺人罪ですし仏教では来世で必ず地獄に落ちるといわれています。

同じ殺生でも殺すときの怒りや努力の量、殺す生命の徳の高さや恩のあるなし、体の大きさも罪の重さに関係してきます。

同著にもありましたが、無意識に痒くて蚊を殺すのと怒りを持って叩き潰すときの罪の重さは違います。(殺意)

仏教で説く物質の最小分子の中に命根がありますがその数の多さもかかわります。(体の大きさ)

同じ人間でも戒を守っているなどの違いがあります。(徳の高さ)

自分の両親、阿羅漢などに関しては殺意のあるなしに関係なく重罪になります。

特に現代で気をつけるべきなのは末期医療時の治療継続を止めさせる決断をすると、これに関係する可能性が高いので避けるべきです。

 

魚を殺すより大きいヤクを殺すときは大変な努力が必要だと思います。

生命の数と一度の殺生の悪業の深さとどちらを取るか難しいですが、基本的に仏教では肉食自体を否定しているわけではなく(浄肉:直接自分のために殺生するのを見たり、聞いたり、疑いが無い)魚を食べるから多くの殺生を助長させているという見方はしません。

 

何を食べていても、食べ物は体を維持するために頂きそのエネルギーを使って善心を育てるが一番です。

2009年2月12日木曜日

戒禁取見について

戒禁取見について

アラナ精舎の近くで梅が咲いていました。





日常読誦経典p.35

「無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。預流果を得ると、これらは解脱に至らない道だと分かる。」

とあります。

【無意味な苦行】

ミャンマーで火を使った食べ物を食べない行、果物だけたべる行、たぶん嘘でしょうけど砂を食べているという人もいます()。シェーダゴンパゴダにも天気の良い日に太陽を見つめる女性の行者が見かけたことがあります。経典の中には暑いに中に、まわりに焚き火をして真ん中に座る修行が紹介されています。

 

【あらゆる宗教儀式・儀礼】

あらゆる宗教儀式・儀礼が悟りに導くと思わなければ問題はあまりないと思います。

アラナ精舎は岸和田で「だんじり祭り」がありますが、それが悟りに導くと思ってやっている人はいないと思います。謂れは何か知りませんが豊作や無病息災を願っているのでしょうか?

祭りをやっても豊作や無病息災がかなうとは思いませんが、文化や習慣として受け取れば問題ないと思います。

正月は初詣、二月は豆まきなどで幸せになるとは思いませんが、目の敵にする必要は無いでしょう。

ですから伝統や習慣を否定しているのではなくその意味を正しく理解すればいいでしょう。

 

アメリカで布教していたシーラーナンダ長老が仏教徒の葬式に呼ばれ説法しました。

亡くなった人の子供たちはほとんどキリスト教になっていて葬式で法話を聞かなかったそうです。

自分の親の信じていた仏教でお葬式をやっていて、たとえ自分が信じていなくとも親のために参加するのがそんなに悪いことで、彼らが信じている神はそんなにうるさいのかと話していました。

 

【犬行者経】

中部経典、犬行者経に犬や牛のようなまねをしていれば天に生まれ変わることが出来るという邪見をもって実践をしている二人の行者がお釈迦様に自分たちの修行の結果を三度尋ねました。

お釈迦様が「もし犬のような実践をしていたらうまくいけば次の生で犬になるでしょう。犬にならなければ地獄に落ちるでしょう」とお答えになりました。

その後、四つの業について説かれ

1.         黒い果(結果)をもたらす黒い業(行為)

2.         白い果をもたらす白い業

3.         黒白の果をもたらす黒白の業

4.         非黒非白の果をもたらす非黒非白の業、業の滅尽に導く

 

1.黒い果(結果)をもたらす黒い業(行為)

殺生、偸盗、姦淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見など

アビダンマ的に言えば12の不善心を伴った身・口・意の業

 

2.白い果をもたらす白い業

1番の反対の良い行為、過去の良い行為によって良い結果が得られる、今生で人間に生まれ仏教に出会え、それを理解できる知恵があるのも過去の行為の良い結果です。

アビダンマ的に言えば17の善心を伴った身・口・意の業

布施、持戒、修習(欲界修習、色界禅、無色界禅)

ヴィパッサナー瞑想も涅槃に導く修行法ですが厳密に言えば悟るまではこの2番に入ります。

 

3.黒白の果をもたらす黒白の業

時々幸せで、時々不幸になるような善悪を混ぜて行った業の結果。

厳密に言えば同時に善悪を行うことは出来ませんが、普通の人はいつも良いことばかりしているわけでもなく悪いことばかりしているわけでもありません。

註釈によると

昔、裁判官が賄賂を受け取って判決を下していました。ある女性が布薩戒を守っている朝、裁判官がマンゴーをその女性にお布施したそうです。

その布薩日に王が家来たちに布薩戒を守ってますかと聞くと、その中にいた裁判官が布薩戒を守っていないというのが恥ずかしいので、聞かれた後からその日だけ布薩戒を守りました。

 

死後、マンゴーの木の上に宮殿がある餓鬼になりました。昼の間は宮殿で幸せに暮らし、夜が来ると天人のような体から恐ろしい餓鬼の体になり、自分の長い爪で自分の背中の膿を掻き苦しみました。

そしてまた朝になると木の上の宮殿で天人のように過ごし、また夜になると苦しみます。

賄賂を受け取り不正な判決をしていた悪業によって夜の間、餓鬼として苦しみ、餓鬼の生でもマンゴーをお布施し布薩戒を一日だけ守った功徳によって日中は天人のように過ごせました。

 

4.非黒非白の果をもたらす非黒非白の業、業の滅尽に導く

八正道によるヴィパッサナー瞑想実践(厳密に言えば出世間心、悟りの心)

 

詳しくはパーリ仏典 中部・中分・第57 片山一良訳 大蔵出版をご覧ください。

分かりにくい説明が続きましたが、簡単にまとめると日常読誦経典p.22の諸仏の教えです。

 

自分が実践しているヴパッサナー瞑想法以外をすべて戒禁取見に入れる人がいますが拡大解釈は本人のためにはならないと思います。気をつけましょう。



2009年2月10日火曜日

仏像についてとミャンマーの台座


先日までヤンゴンに行ってました。
これからはなるべく更新しようと思います。

三週間ほどの予定でしたが変更して8日間の
旅行でした。
協会でサイクロン被害の義捐金を使って村の
小学校の校舎の落成式の予定でしたが
工事が遅れて落成式は行わずに村の人に
モヒンガー(ミャンマーの魚のだしのそうめん)を
お布施しました。
その他にも子供たちに服、ノート、お菓子なども
お布施しました。
詳しくはフォトアルバムをご覧ください。

もう一つの大事な用は小西会長のお布施でアラナ精舎の本尊の
台座を買って持ってくることです。
本日無事にアラナ精舎に届き組み立てました。
チーク材製で金箔を貼っています。
今の時期は漆が乾きにくいそうで漆を厚く塗りませんでしたが
きれいに仕上がっています。
サードゥ・サードゥ・サードゥ

本題の仏像についてです。
ご存知のとおり仏滅後何百年かは仏像はありませんでした。
その代わりに仏舎利塔や菩提樹が礼拝の対象でした。
礼拝の対象を4つあげる場合がありますが
  1. ダードゥチェーティヤ (仏舎利)
  2. パリボーガチェーティヤ (ブッダの使用した物、菩提樹など)
  3. ウッディサチェーティヤ (仏像)
  4. ダンマチェーティヤ (仏舎利の代わりに法輪など埋めてある塔など)
3番が仏像となっていますが指定されたなどの意味で仏像も釈尊の徳を想いうかべるために作ったもので、偶像崇拝ではありません。

ですからブッダの写真や絵なども仏像と同じく大事にしゴミ箱などに捨てるべきではありません。以前タイでマイルドセブンか何かの日本のタバコにパゴダの写真を載せようとして問題になったことがあります。日本人の感覚だと観光地の写真と同じだと思っているのかもしれません。

2番の菩提樹などやシュエダゴンパゴダの中にあるという杖や水漉しなどもお釈迦様が使ったものを礼拝の対象にしています。

1番の仏舎利なども本物で無い場合は3番になりますが本物かどうかはあまり気にしないで礼拝しています。註釈書に砂のパゴダを作って礼拝していた人が死後天界に生まれ、その後ブッダの元で阿羅漢になるまで一度も悪い世界に生まれ変わらなかった話があります。

4番は経典を彫ったものを塔にしてお祭りしています。

繰り返しになりますが大事なのは仏陀の徳を想いうかべ礼拝することです。
あるミャンマーの長老が外国人から偶像崇拝だと非難され何で仏教とは石で出来たものを拝んでいるのかといわれたそうです。同じ石だから道端の石も拝んだらどうだと言われ、長老があなたの奥さんと母親は同じ女性だが母親と性的関係を持つのかと聞き返しました。

ある長老がブッダの徳を想いうかべブッダガヤの方角を毎日何度も礼拝していました。
知人の長老がメッカを拝んでるのかと冷やかしてましたが、勘違いされないように仏像の前で礼拝したほうがいいかもしれません (笑)

「鰯の頭も信心から」と言われないように説明できるといいですね。