2009年9月20日日曜日

正法非難罪は重業ですか?

五逆罪は①母を殺す②父を殺す③阿羅漢を殺す④仏陀に血豆を作らせる⑤サンガを分裂させるで次生に地獄におちる重業となると言われています。

私の勉強不足かもしれませんが五逆罪に決定邪見を足しているのも見たことがありますが正法非難だけで重業になるとは聞いたことがありません。
ミャンマーの中で高名なマハーガンダヨン僧院の初代の大長老のアビダンマの解説書に決定邪見を足して六逆罪にする考えは註釈書、復註釈書には見ることができず最近のものだとあります。

決定邪見の定義はお釈迦さまが説法しても取り除くことができないような邪見をいいます。
ですから普通の邪見は不善心ですが即、重業になるわけではありません。

正法非難が重業になるなら、仏教以外の宗教を信じている人、唯物論者がどんなに他の悪業を積まずに生きたとしても非難しただけで地獄に落ちることになります。

新興宗教のロジックで自宗を非難する人を地獄に落ちると脅かすのはよくあることです。

キリストの救済や、阿弥陀様の第一八願により念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると信じることは因果法則を否定していると思いますし、もし仏教と比較する場合は、自宗からみた意見を言えば非難することになります。

地獄行きでしょうか。

自分の宗教を信じて仏教を非難しなければ問題ないのでしょうか。

正法非難を非難するのは悪業になると思いますが即、重業になるとは思えません。

邪見によって悪業を犯せば悪趣に転生する確率がたかくなるのは間違いないと思います。

同じ仏教の中でも自宗を信じるのが普通だと思います。
法華経を非難するすると地獄に落ちると聞いたことがありますが、本当ならテーラワーダ仏教徒は地獄落ちですね。



幸せでありますように。

2009年9月18日金曜日

テーラワーダ仏教の預流者とは

アビダンマッタサンガハのアラナ精舎での勉強会が終了いたします。

アラナ精舎での最後の回はヴィパッサナー冥想の智恵の進歩や解脱についてです。

それに合わせて今回のブログではテーラワーダ仏教の悟りについて質問に答えるかたちで伝統的な解釈を説明したいと思います。




質問:人間界しか悟ることはできないのですか?



三因なら人間界以外でも欲界天、色界天、無色界天でも悟ることができますが、無色界天は悟る条件の一つに法を聞くとありますので物質のない無色界天は預流道の悟りを得ることができません。
それ以外は可能です。

ただ人間界は苦と楽のバランスがとれていて修行しようという気持ちが生じやすいのは確かです。

釈尊が説法すると多くの神々が悟ったなどと記述がありますし、菩薩が生まれて一週間で亡くなられたマーヤー夫人の生まれ変わりである天人に説法するためにアビダンマを天界で説き、悟ったなどともあります。




質問:預流者でも五戒を破ることはありますか?



預流道智を得ると悪趣に行くような不善心は起こりません。

五戒を破ることは悪趣に行くような業を作ります。
ですから本物の預流者なら五戒は絶対に破りませんし、そのような不善心が起こらないのですから努力して守るレベルではなく自然に守れます。

たまに自分は預流者だと思っている人がいますが、五戒を破るような気持ちが起こるか自分でチェックしてください。

他の宗教ならなんといっても結構ですがテーラワーダ仏教はこうなってます。
預流果でも酒を飲むと主張していた人は自分がお酒が好きだったなどという話もあります(笑)



参考に12ある不善心の中で悪見相応貪根心4と疑相応痴根心1を完全に取り除き、残りの不善心も悪趣に生まれ変わるような強い不善心は生じません。

預流道を得ると聖者です。道智は預流果の心が生じる前に一心刹那一回だけ生じるだけです。

ですから私は預流道(向)だというと笑われますよ。

悟っていない預流向など問題外です。

長部(ディーガニカーヤ)大篇〈2〉 (パーリ仏典)
p.73

「私は一来者への願いが確立しています」という言葉を道(向)と解釈する人がいるようですが、伝統的な
意見ではありません。註釈書によると一来道のために観vipassanaを開始している・・・・とあります。



三種類の預流者を説明します。

極七返預流者 欲界に七回転生して涅槃に入る預流者、

家家預流者 次生から六生目までの間に涅槃に入る預流者

一種預流者 一度だけ転生した後、涅槃に入る預流者


一種預流者を一来者と勘違いしている人もいますが別物です。
なぜ勘違いするかと言えば、生まれ変わりだけに目を向けるからで道智が何回生じたかとみれば間違えることはありません。

同じお経で

ここから七回
そこから七回
十四回の輪廻があります
私が以前住んでいた
その住処を憶えています

の詩ですが過去生を語ったものでこれから十四回生まれ変わるという意味ではありません。
このように何度も生まれた場所なので本来もっと高い天界に生まれ変われる善業はあるが、執着によってこの天界に生まれたと説明するためのものです。


預流者になると仏法僧に対する信が不動になり、対応する煩悩を道智によって取り除くので五戒を努力なしに守れます。

ですから生まれ変わった先で、教わることなく自然と五戒を守れるのです。
自分が生まれてから一度も五戒を破ろうと思ったこともなく、破っていないなら前世で預流者にだったかもしれませんね(笑)


幸せでありますように。




 

2009年9月8日火曜日

宗教法人ランキング



週刊ダイヤモンドが新宗教特集しているとのことで、木岡さんからお借りて読みました。
全宗教法人ランキングがあり協会を探しましたが見当たりません(笑)

テーラワーダ関係ではタイ国ダンマカーイは載ってましたが。

念仏宗に関しては当たり障りない記事なのが残念です。

2009年9月7日月曜日

アーナンダ菩提樹のお布施



8月27日にイギリス在住のミャンマー人のウ・サンドバーサ長老がアラナ精舎に立ち寄ってくれました。

その長老とは私がマハーシ冥想センターの別院で海外布教のためにミャンマー人の長老に英語を教え、外国人にはビルマ語を教えるマハーシ・インターナショナル・トレーニングスクールで2年ほど同じお寺で過ごしたことがある方です。

8月29日と30日には広瀬さん上田さんたちが京都や三田の新精舎などを案内してくれました。

9月3日には亀田さんの車でアラナ精舎から奈良に向かい、午前中、法隆寺を観光の後、奈良のスリランカレストラン ハンターナで、レストランオーナーのサマン・ペレラさんと関さんと合流し昼食のお布施をしていただきました。

その後、真言律宗 元興寺の辻村泰善住職に元興寺と東大寺を案内していただきました。




住職の御案内で東大寺の大仏殿の大仏の近くまで登ることができイギリスから来た長老と二人でお経を上げさせていだきました。
(アーナンダ菩提樹を住職にお布施いたしました)

お忙しい中、元興寺住職・辻村様には東大寺まで案内していただきイギリスから来た長老も大変喜んでおりました。

ありがとうございました。

幸せでありますように。









読経中 鹿せんべい 

2009年9月1日火曜日

思考しない心の流れ

今回は連載を休ませてもらって思考しない心の流れと思考する心の流れについて見ていきたいと思います


良い思考もしたくないレベルの高い人がいるようですが、仏教で思考しない心の流れは安止路に入っている状態です。

安止路とは色界禅、無色界禅の善心と唯作心、出世間心が定にとどまっている間生じ続けている状態です。
(アビダンマッタサンガハ第4章をご覧ください。東京の方は9月5日に勉強します)

このような状態では心の所縁が決まっており当然、ゆわえる思考は生じません。

色界禅、無色界禅に入りつづけるにはそれぞれの所縁に常に心が向かっていなければなりません。

もしゆわえる思考が生じれば、それは考えている心の流れが生じているので色界禅、無色界禅から出てしまっています。

涅槃を所縁とし果に入る時もおなじ理由です。

悟りの段階に対応し不善心は生じなくなりますが完全になくなるのは阿羅漢になってからです。

阿羅漢になれば善心が生じなくなり唯作心というただ機能するだけで結果を生じさせない心が生じますが思考しないわけではありません。

ですから悟った人や色界禅、無色界禅に入れるような人でも普段の心は思考する欲界心の状態です。

欲界心とは不善心、無因心、欲界浄心に分けられます。

ですから悟っていることと思考しないことは別の問題です。

冥想中にたとえ良い思考であってもするべきでないのは疑問は起こらないと思います。

良い思考をすること自体は当然良い心が生じているので良いとしても、冥想するという目的から離れています。

もし冥想中、悪い心が生じたときに止めることが難しいようなら、良い思考を使っても止めるべきです。



では普段の生活で良い思考を止めるべきでしょうか?

とりとめのない良い思考なら(私は掉挙だと思いますが、もしあるとすれば)止めるべきだと思いますが、止めるべきは悪い心(不善心)であって善心ではありません。

せっかく善心が生じているのに止めようとするのは間違えです。

良い思考が生じていたら生じていると「気づく」だけです。
この「気づき」の心も善心です。

お布施に関して言えばお布施するときにお布施を受ける人の徳や自分が受ける功徳について何度も考えるべきだとあります。

例えば精舎建設のためにお布施した人が、お布施したことを思い出し喜びの心を何度も生じさせるのは大変良いことです。

思い出すたびに善心が生じています。

もし思いだしたとき(冥想中以外)、当然これも思考ですから止めるならせっかく得られる功徳を逃すことになります。

まず悪い心(不善心)が生じなくなるように努力すべきです。
悪い心をろくにコントロールできない人がせっかく生じた善心の思考を止めようとすれば不善心が多く生じるだけです。

簡単に言えば阿羅漢以外の心の流れ(欲界速行心)は善心か不善心が生じているだけです。

善心を取り除こうとすれば不善心が残るだけです。

普段の生活においてなるべく「気づき」の善心か良い思考が生じるように努力すべきです。

日常生活において良い思考は「気づく」必要はあっても無理に止める必要はありません。

小さいからといって火をほっておくと大火になるように、小さい不善心でも直ぐに消すべきなのは言うまでもありません。



幸せでありますように。