お布施について何回かに分けてご紹介していきたいと思います。
増支部五集 妙法品 苦話経(dukkatha sutta)の中に善い話であっても人によっては聞きたくないような話になると説かれています。
1.信がない人にとって、信に関する話
2.戒を守りたくない人にとって、戒に関する話
3.自分の財産などに執着が強い人にとって、お布施の話
4.色々な情報に興味がない人にとって、情報の話
5.知恵がない人にとって、知恵に関する話
日本の新宗教の中でもはじめはお金のかからない宗教と自慢していた教団が、最近ではお布施を募り使いきれないのかわかりませんがヨーロッパにお城を買っていたと聞いたことがあります。
このような宗教が多い中で布施についての話は難しい所です。
ミャンマーの仏教徒の中でも僧侶がお布施の説法をすると欲深い坊さんだと邪推する人がいますが、お釈迦様でもお布施について説法はしているので、そのような人の考えではお釈迦さまも欲深くなってしまいます。
中にはミャンマーの新年の連休に一回ぐらいしか使わないような建物を建てるのに、海外まで行ってお布施を募る長老もいますので、私はもっと実際に毎日使うような建物の修繕や新築などにお布施した方が良いと思うこともあります。
説法が上手な有名な大長老にお布施が集まり、使いきれないので必要もない建物を建てまくっているお寺もあります。
しかし、真面目に頑張っている学問寺などは信者さんとの接触も少なくお布施が集まりにくい状況です。
お釈迦様の過去生であるスメダ菩薩が正自覚者・一切智者になるためにどのような実践をすべきか考えた時、最初に布施波羅蜜を積むべきだと考えました。
仏陀になった後、聞く人の能力に合わせて段階を追って説法しました。
布施について
戒について
天界について
五欲を貪ることの欠陥
煩悩から自由になることについて
道・果・涅槃についてなどです。
ですから仏陀になる前から悟った後でもお布施は一番最初の段階として説かれています。
小部 如是語のお布施経に
『比丘たちよ。お布施することの思(業)の結果を私が知っているように衆生が知るとするなら、自分が食べる食べ物の中から誰にも与えることなく、何も食べることはできない。自分のものを与えないという物惜しみも衆生を苦しめることはない』とあります。
この説法から言えば物惜しみの強い人が言うように布施は低いレベルの善業ではありません。
輪廻を廻す悪い原因でもありません。
世間的な結果しか得ることができず、道・果・涅槃を邪魔するものでもありません。
布施の功徳なしには出世間の知恵を得ることは難しいということができます。
衆生は輪廻の渦から抜け出せずに苦しみ続けています。苦しみの原因を探してみると、この名色(心と物質)に対する渇愛が原因だと説かれています。
渇愛が集諦(苦しみの原因という真理)、
名色が苦諦(苦しみの真理)
渇愛を友としている人は長い間輪廻を回り続け、輪廻から逃れることはできないとも説かれています。
働きもせず、酒ばかり飲んで暴力をふるう夫に対して別れられない妻などは、他人から見ると別れればいいと思うのでしょうが本人は渇愛によって冷静に判断できずにいるようなものです。
(この例えはご自由に男女変換してお考えください)
凡人というのは自分の名色をこの妻が夫を愛するように大変執着しています。
自分の心と体はDV夫のように勝手に病気になるなど好き勝手振舞いますが、別れられない妻のように文句を言わずに面倒を見続けているようなものです。
最後には身勝手な夫は他の女性のところに逃げてしまいます。
残った妻は一人ではさびしいので新しい男性を探して結婚します。
一生名色を面倒見ても最後には死んでしまい、渇愛が残っているのでまた新しい生に生まれ変わるのです。
つづく