2009年8月25日火曜日

お布施とは④

渇愛の力



苦しみの原因である渇愛を取り除けると良いのですが、渇愛の力も根強く不還果に達しても完全に取り除くことはできません。



31の世界で言えば有頂天(非想非非想処界)まで邪魔をし続けます。



彼らの勢力も少なくなく108の煩悩と数えることもできます。


108とは


欲愛 五欲に対する渇愛


有愛 常見を伴う色界、無色界という生への渇愛


非有愛 断見を伴う非有への渇愛


色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛の6つを掛けると18


18を過去、現在、未来の三時と掛けると54


54を内、外を掛ければ108





この勢力がある煩悩を取り除くための例えは西洋外科医が癌の手術をするようなものです。


癌に犯されている器官を遠慮せずに手術で取り除いていきます。


内にある54の渇愛に広がっている癌と外にある54の渇愛に広がっている癌を一度に取り除くことはできないので外の渇愛を少しずつ取り除いていくために布施というナイフで取り除いていく必要があります。




無余涅槃に入るとは名・色、五蘊が完全に滅した状態を言います。


新しく別な次元で特別な名・色、五蘊が生じ永遠に生老病死を乗り越えて幸せにいき続けられる世界ではありません。


いくら完全に悟りたいと思っていても渇愛がある限りは只であげるといわれても欲しいと思わないでしょう。


なぜなら自分の心にある渇愛が涅槃を受け付けないからです。


マンレーサヤドーという大長老が「愚か者と畜生に涅槃についての話は苦すぎる」とマーガデーワという本に書います。


ここで特に注意しなければならないのが涅槃と渇愛はお互いに反対の法、水と火のようなもだと理解するべきです。この二つの法は同所、同時に生じることはありません。


ですから渇愛が強い人は涅槃を受け付けません。


涅槃を体験した人は渇愛を受け付けません。(阿羅漢果)


ですから涅槃を欲する人は渇愛を取り除かなくてはなりません。


これは疑問の余地がありません。


 つづく

2009年8月14日金曜日

お布施とは③

輪廻を続かせる原因

涅槃から遠のき輪廻を続かせる法は何かといえば渇愛(貪)と慢だけでなく見(邪見)も含まれます。



カンダワッガサンユッタ、アッタディーパワッガ、サマヌパッサナー経の註釈によると、この貪、慢、見という三つの法が輪廻を続かせると述べられています。



この三つは8つの貪根心に含まれる心所です。


貪心所は8つ全てに含まれ

見心所は邪見を伴う貪根心4に含まれ

慢は邪見を伴わない貪根心4に含まれます。

ですから三つまとめてしまえば渇愛(貪)ということもできます。



また別のお経では、渇愛を犬をつないでいるロープに例えています。


凡夫の有情はロープのつながれている犬に例えられ


凡夫が大変執着する五蘊(色受想行識)を、ロープを縛っている柱に例えています。


犬を柱にロープで繋いでいるとロープの長さしか移動できません。


柱の周りを回ったり、後は寝ころぶしかありません。


柱にしっかりと繋いであるので幾ら引っ張っても逃げることはできません。


凡夫である有情も渇愛というロープで縛られているので柱という五蘊から自由になることはできません。


欲界、色界、無色界などの世界を回り続け、五蘊から自由になった涅槃を体験できません。

経典の例えとはずれますがロープが長ければそれなりに自由ではと思うかもしれません(笑)



しかし、下手に長いとそれに満足しロープのない自由な状態を望まなくなる可能性が高くなります。



敵を敵と知る


今まで輪廻を続かせる原因を見てきましたが、それは布施、持戒、冥想実践ではありません。


渇愛が原因です。

渇愛という貪心所です。


輪廻を続かせ涅槃を体験するのを邪魔する苦しみの原因である貪という敵を向かい撃つ道具が必要です。


しかし、その前に渇愛という敵を本当に敵だと思っているでしょうか?


友達だと思っている人もいるかもしれません。



敵である渇愛も表に出ていれば見つけやすいのですが、スパイのように潜伏活動を行っている場合もあります。


渇愛随眠煩悩です。機会があれば表に出てきて破壊活動を行います。



つづく

2009年8月8日土曜日

お布施とは②

ある時、世尊はコーサンビ国のガンジス河の岸で比丘たちと過ごされていました。



その時、大きな丸太が流れてきました。その丸太を見た世尊は

「比丘たちよ。ガンジス河に沿って流れてきた丸太を見ましたか?」と質問すると

比丘たちは「見ました。世尊よ。」と答えました。



世尊は「比丘たちよ。もし、この丸太が

河のこちらの岸に上がらなければ


河の向こう岸に上がらなければ


河の中ほどで沈まなければ


中州に上がれなければ


人が引き上げなければ


神が引き上げなければ


渦に巻き込まれなければ


丸太の中が腐れなければ


大海まで至るであろう。なぜならこの丸太が流れているガンジス河は大海へと流れており、向かっている。だから大海に至るであろう。




比丘たちよ。この丸太のように貴方たちも


河のこちらの岸に上がらなければ


河の向こう岸に上がらなければ


河の中ほどで沈まなければ


中州に上がれなければ


人が引き上げなければ


神が引き上げなければ


渦に巻き込まれなければ


丸太の中が腐れなければ


涅槃を確実に実現できるでしょう。なぜなら貴方たちが信じ頼りにする正しい見解という正見は涅槃へと向かっています。ですから確実に涅槃を実現できるでしょう。」と説かれました。




釈尊がこのように説かれた時、ある比丘が手を合わせて礼拝し「世尊よ。世尊が説かれたこの岸などという例えは大変奥深く、私たちの知恵では理解できません。ですからもう少し分かりやすく例えを説明してください」とお願いしました。



その時、世尊が

この岸とは眼耳鼻舌身意という六内処です。


向こう岸とは色音香味触法という六外処です。


流れの中に沈むとは喜貪です。


中州に上がるとは高慢になるなどの慢です。


人が引き上げるとは人間の生に執着することです。


神が引き上げるとは神々の生に執着することです。


渦に巻き込まれることは色貪、声貪、香貪、味貪、触貪に執着し逃れられなくなることです。


中が腐るとは、外はきれいに見えても中が腐っているように、ある人は見た目がよく本当に戒、定、慧の三学に満たされているような人に見えても、しかし、見えないところで悪行を行っているので、そのような人から悪い噂が流れてきます。そのような人を中が腐っている丸太に例えています。


この丸太の例えの経によると輪廻という河の中を流れている丸太に例えられる有情は、涅槃という大海に至らないように邪魔をする八つの障害があると知るべきです。



この八つの自性をみると貪、慢の二つの法と言えます。貪と慢があれば涅槃に至ることはできません。輪廻を回り続けるということです。



次回は輪廻を続けさせる法についてです。

2009年8月1日土曜日

お布施とは①


お布施ついて何回かに分けてご紹介していきたいと思います。



増支部五集 妙法品 苦話経(dukkatha sutta)の中に善い話であっても人によっては聞きたくないような話になると説かれています。



1.信がない人にとって、信に関する話

2.戒を守りたくない人にとって、戒に関する話

3.自分の財産などに執着が強い人にとって、お布施の話

4.色々な情報に興味がない人にとって、情報の話

5.知恵がない人にとって、知恵に関する話



日本の新宗教の中でもはじめはお金のかからない宗教と自慢していた教団が、最近ではお布施を募り使いきれないのかわかりませんがヨーロッパにお城を買っていたと聞いたことがあります。



このような宗教が多い中で布施についての話は難しい所です。



ミャンマーの仏教徒の中でも僧侶がお布施の説法をすると欲深い坊さんだと邪推する人がいますが、お釈迦様でもお布施について説法はしているので、そのような人の考えではお釈迦さまも欲深くなってしまいます。



中にはミャンマーの新年の連休に一回ぐらいしか使わないような建物を建てるのに、海外まで行ってお布施を募る長老もいますので、私はもっと実際に毎日使うような建物の修繕や新築などにお布施した方が良いと思うこともあります。



説法が上手な有名な大長老にお布施が集まり、使いきれないので必要もない建物を建てまくっているお寺もあります。



しかし、真面目に頑張っている学問寺などは信者さんとの接触も少なくお布施が集まりにくい状況です。



お釈迦様の過去生であるスメダ菩薩が正自覚者・一切智者になるためにどのような実践をすべきか考えた時、最初に布施波羅蜜を積むべきだと考えました。



仏陀になった後、聞く人の能力に合わせて段階を追って説法しました。



布施について

戒について

天界について

五欲を貪ることの欠陥

煩悩から自由になることについて

道・果・涅槃についてなどです。



ですから仏陀になる前から悟った後でもお布施は一番最初の段階として説かれています。



小部 如是語のお布施経に

『比丘たちよ。お布施することの思(業)の結果を私が知っているように衆生が知るとするなら、自分が食べる食べ物の中から誰にも与えることなく、何も食べることはできない。自分のものを与えないという物惜しみも衆生を苦しめることはない』とあります。



この説法から言えば物惜しみの強い人が言うように布施は低いレベルの善業ではありません。



輪廻を廻す悪い原因でもありません。



世間的な結果しか得ることができず、道・果・涅槃を邪魔するものでもありません。



布施の功徳なしには出世間の知恵を得ることは難しいということができます。



衆生は輪廻の渦から抜け出せずに苦しみ続けています。苦しみの原因を探してみると、この名色(心と物質)に対する渇愛が原因だと説かれています。



渇愛が集諦(苦しみの原因という真理)、

名色が苦諦(苦しみの真理)



渇愛を友としている人は長い間輪廻を回り続け、輪廻から逃れることはできないとも説かれています。



働きもせず、酒ばかり飲んで暴力をふるう夫に対して別れられない妻などは、他人から見ると別れればいいと思うのでしょうが本人は渇愛によって冷静に判断できずにいるようなものです。

(この例えはご自由に男女変換してお考えください)



凡人というのは自分の名色をこの妻が夫を愛するように大変執着しています。


自分の心と体はDV夫のように勝手に病気になるなど好き勝手振舞いますが、別れられない妻のように文句を言わずに面倒を見続けているようなものです。


最後には身勝手な夫は他の女性のところに逃げてしまいます。


残った妻は一人ではさびしいので新しい男性を探して結婚します。


一生名色を面倒見ても最後には死んでしまい、渇愛が残っているのでまた新しい生に生まれ変わるのです。



つづく