仏教を三つに分けることが出来ます。
教学、 お釈迦様の教えの教義を学ぶ
行道・実践、 戒を守り、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想の実践
通達・洞察、 実践による理解、悟り
仏教の教義を学ぶのはダムの堤
実践はダムの中の水
理解や悟りはダムの中に咲く蓮の花に例えます。
教義をおろそかにすると水がたまらず花が咲くのは難しいでしょう。
しかし、大量に水が湧き続ければ堤無しでも花が咲くかもしれません。
常識的に考えると堤をしっかりと作れば雨が降るたびに水が溜まっていきます。
いくら水があふれるほど溜まっていても蓮の花の種?がないと花が咲くことはないでしょう。
テーラワーダ仏教の教義を学ぶことの危険性は無いと思います。
馬鹿な人が包丁で人を殺すからといって、家庭で料理をするのに危険だと心配する人はいないと思います。
勉強ばかりして瞑想しないのは問題ですが、勉強も瞑想もしない人よりましです(笑)
もし教義を学ぶのに興味がなければ善い指導者に従って瞑想だけしていればいいと思います。
アビダンマッタサンガハを学ぶメリットはテーラワーダ仏教の教義を体系的に理解できることです。
色々な法話を聞いても、ほとんどの人が良いお話を聞けて良かったぐらいで終わり、今まで聞いた法話などを体系的に理解することが出来ません。
アビダンマの基礎があればどんな人が何と言おうと教義という見地から見ることが出来ます。
例えばサマタ瞑想で禅定を得てからでしか真のヴィパッサナー瞑想にはならないと言われれば、今まで禅定に達することなく実践していたヴィパッサナー瞑想法が不安になり身が入らなくなるかもしれません。
もし基礎的な知識があればこの指導者はこういう見方だけれども、私は別の指導者の解釈の仕方がもっとも納得できるので、私はこの瞑想実践をしますと冷静に判断できます。
新興宗教は、例えば仏教系なら、正しく仏陀の教えを現代に伝えることが出来るのは私たちの教祖様だけて、他の解釈は全て間違いだと言います。密かにその教祖様だけに脈々と一子相伝で仏陀の教えが伝わったのかもしれませんが密教なら分かりますが、テーラワーダ仏教ではありえません。
E証人などは自分の家族でさえも教えに従わなければ悪魔扱いです。
彼らの異常さは理解できるのに自分のこととなると平気で他人を悪魔扱いする人がいるのは悲しい限りです。
テーラワーダ仏教の基礎が分かれば、それに照らし合わせて判断すれば良いだけです。
教祖様が言ったから信じるだけではなく、その教祖様が何を言ってどのように生きているかです。
O真理教の教祖は、強制捜査が入るときに信者に向かって政府や警察に怒りの心を起こさずに慈悲喜捨の実践をしなさいとビデオで説きました。
私はその時、テレビを見ていて、いいこと言うなと思ってしましました(笑)
どんな教えでも全て出鱈目だったら信じる人も少ないでしょう。正しいことも混ざっているので騙されるのです。
高校生のとき微分・積分などやったかもしれません。
理系以外のほとんどの人には試験のため以外、一生使わない勉強だとおもいます。
アビダンマの勉強は我々の心と身体(物質)を詳しく学んでいるだけで瞑想実践、日常生活と乖離したものではありません。
仏教文献学、現代日本の大学でやるような仏教についての学問はヴィパッサナー瞑想実践のためには必要ないと思います。
幸せでありますように。