「無明」について、どうしても自分で調べたり考えたり、私の周囲の大乗仏教のお坊さんに尋ねてもわからないので、長老に質問させていただきたくて、メールしました。
無明は、自分の行為によって、増えたり減ったり、あるいは深まったり浅くなったりするのでしょうか?
貪・瞋・痴ばかりで生きていたら無明が深くなり、あるいは仏教を学び聴聞や如理作意を工夫して生きれば無明が薄くなる、ということはあるのでしょうか?
それとも、人が生きている間は、悟らない限りは、無明はなんら減ることも薄くなることもなく、変わらずにずっと存在するものなのでしょうか?
不善心を大きく分けると 貪8・瞋2・痴2の三つのグループに分かることが出来ます。
不善心を大きく分けると
不善心12と共に生じる不善心所が14ありますが、その中で全ての不善心とともに生じる痴心所が無明と呼ばれています。
14の不善心所の中の10種類を煩悩と呼び日本でおなじみの108の煩悩もこの10種類から計算して出します。
煩悩を三つに分けて説明すると
- 犯罪煩悩 実際に五戒などを犯す
- 廛(てん)煩悩 心の中だけで煩悩が生じる
- 随眠煩悩 実際には生じず機会がくるまで眠っている煩悩と三つに分けること
ができます。
3番以外は無明が減ったということは厳密には言えませんが、仏教を勉強したり瞑想したりすることで厳密ではありませんが1と2が減ったと言っても悪くはないと思います。
例えば瞑想によって悟らなくても気づきがあることにより煩悩が生じず一生を送れれば、瞑想せずに煩悩だらけで過ごすより結果は明らかです。
不善心所の中で最も根深いものが痴(無明)と貪(渇愛)です。
縁起の教えでは無明が縁によって行が生じ...などと説かれ四聖諦の教えでは渇愛が苦の原因と説かれています。
ゴータミー精舎で4月3日のアビダンマ勉強会は仏教用語の解説ですので続けて勉強していない方でも参考になると思いますのでぜひご参加ください。
幸せでありますように。