2010年3月26日金曜日
三人の大長老の意見
2010年3月24日水曜日
見えないピンクのユニコーン
どうでもいいことですが修行が足らないので我慢できずに一言(笑)
純粋に教学的な問題で、特定の個人を攻撃しているわけではありませんのでご了承ください。
まず二因者でも智慧(慧心所)をともなった心は生じます。
しかし、悟りや禅定に至るほど智慧が育たないと説明されています。
一切瞑想や修行しても意味がないと言っているわけではありません。
二因であっても今生での修行が来世で三因になる縁となるはずです。
例えばピアノを練習すればだれでもある程度弾けるようになるのはあたりまえですが、その中で一流のピアニストになることは生まれ持った才能と本人の絶え間ない努力が必要です。
ピアノなら一流のレベルに達するかはある程度予想できると思いますが、瞑想では才能がなく悟れないとは簡単に言うことができません。
一流のピアニストになれないからといって普通にピアノを楽しむためのレベルで練習することが意味のないことでしょうか?
私は二因が今生で悟れないとなぜ問題になるのか理解ができません。
女性は仏陀になれないという教義を女性蔑視だと文句言うのも分かります。
科学的な人がジャータカで動物が何で話すことができるのかとか神通力で空を飛ぶことができるとか、菩薩が最後の生で誕生後直ぐに何歩か歩いて何かしゃべったとかを信じないのも理解できます。
二因と三因の問題点は一流大卒や男性、高いカーストでないと今生で悟れないと言っているわけでもありません。
人が二因か三因かは他心通を持っている人しか正確に分かりません。
親切な他心通者が「あなたは二因ですが悟れます」と教えてくれて喜んで頑張って修行し今生で悟ったならば教義上からみればあなたは三因だったということです(笑)
何人もの二因者を瞑想指導して悟らせた経験が御有りだというなら有難いのですし、その何人もの悟ったという人が神通力によって私は今生で二因者でしたが悟れましたと宣言してくれるなら二因でも悟れるということが証明できると思います。
教義上は三因でも波羅蜜が熟してないと悟れませんし、波羅蜜が満たされていても悟るまで努力しないと悟りません。
三因で阿羅漢になる波羅蜜がありながら修行しなかったので悟らなかった例がダンマパダの註釈書に出ていますし、4ヶ月の間、一つの偈を憶えることができなかったチューラパンタカ(周利槃特)は釈尊の指導で悟ることができました。
彼の兄は阿羅漢でしたが弟が悟ることは無いと思い精舎から追い出そうとしたぐらいです。
この例から理解できるのは今生で悟れるか知るのは難しいというだけで、今生で誰でも悟れるとは解釈できません。
自分が気に入らない教義を否定するのは簡単です。
心は色の17倍はなぜ16倍や24倍ではいけないのでしょうか?
DVDの書き込みスピードから言えば17倍は不自然です(笑)
心が89や心所が52なども全て否定しようと思えばできるでしょう。
私は大変疑い深く何でも簡単に信じるわけではありませんが、自分の理解が届かない教義などはそのまま信じるしかないと思っています。
どんどん新しい概念を付け足したことで「誰でも修行すれば悟ることが可能」という仏教の基本から脱線したと言う意見があるようですが、二因の概念も来世での悟りを否定しているわけではありません。
アビダンマッタサンガハを書いたアヌルッダ大長老やその他の大長老たちは経典をろくに勉強しないのでしょうか?
パーリ経典の中の増支部第4集(南伝18 p.237, 人施設論47 p.419)
Padaparama 「言葉を覚えるだけの能力が最大の人」という概念が説かれていますが、解釈はどんなに説法を聞いて瞑想しても今生で四聖諦を洞察することができず、言葉だけを理解して憶えるぐらいのレベルの人とあります。
増支部のパーリ経典を否定すれば簡単ですがどっからどこまでが仏説かを誰が選ぶのでしょうか?
ビルマのテーラワーダ仏教の歴史の中で悟っていて教学でも優れた大長老は何人も現れていると思いますが、「二因者は今生で悟れないという説」は間違いだと一人も否定しないのは何故でしょうか?
神通力によって生まれ変わりの心の仕組みを完全に理解し註釈などを否定しているのなら有難いと思いますし、その様な貴重な意見は素直に従うべきだと思います。
しかし、その人が神通力をもっての発言かどうかが分かるのでしょうか?
仏教の教えを正しく解釈できるのは自分の教祖だけで、他の人の意見など聞かないという態度はカルト教団の信者です。
ここまで読んで理解できない人は二因の確立が高いと私は思いますが教義上はそうではありませんご安心ください(笑)
四念住経の最後に「比丘たちよ、誰でもこの四つの念住をこのように7年修行すれば、二つの果の内のいずれかの果が期待されよう。現世における阿羅漢果か、あるいは執着の残りがあるなら不還果である」とありますので二因は悟れないと書いていないではないかと言うならば、なら「比丘たちよ」と説かれてあるから在家は関係ないと言葉のまま解釈したらもっと困ったことになると思いますがいかがでしょうか?
二因でも悟れると信じるのは信教の自由で問題ないと思いますが、テーラワーダ仏教から言えばミャンマーでは問題外です。
幸せでありますように。
2010年3月22日月曜日
子供の誕生は祝福されるべきでしょうか?
祝福するしないはさておき仏教では煩悩を完全に取り除かない限り無明と渇愛を原動力として輪廻し続けると説かれています。
死んだら今の苦しみから自由になると思って自殺したとしても、もっと苦しい世界に生まれて過ごすことになれば意味がありません。
生老病死は苦であるという理由で子供を作らなかったとしても輪廻する生命が減る訳でもありません。
生自体は苦であっても地獄、畜生、餓鬼、阿修羅という四悪趣から比べると人間の生は楽と言えます。
そして布施、持戒、修習などの功徳を積むには天界より優れているとさえ説かれています。
天人が亡くなるとき周りの天人が人間に生まれ変わるように願うように勧める話しもあります。
もし得ることが出来た貴重な人間としての生で悪業を多く積むことになるなら祝福はできませんが、その生において善業を多く積むことができるならば祝福出来るのではないでしょうか。
輪廻の教え、縁起の教えを理解して今生で功徳を積めばもし輪廻がなかったとしてもよい人生が送れますし輪廻があれば将来の生で幸せをまた得ることが出来るでしょう。
パスカルに賭けるより仏陀に賭けた方が良いと思います。
幸せでありますように。
2010年3月20日土曜日
「無明」について質問
不善心を大きく分けると
不善心12と共に生じる不善心所が14ありますが、その中で全ての不善心とともに生じる痴心所が無明と呼ばれています。
14の不善心所の中の10種類を煩悩と呼び日本でおなじみの108の煩悩もこの10種類から計算して出します。
煩悩を三つに分けて説明すると
- 犯罪煩悩 実際に五戒などを犯す
- 廛(てん)煩悩 心の中だけで煩悩が生じる
- 随眠煩悩 実際には生じず機会がくるまで眠っている煩悩と三つに分けること
ができます。
3番以外は無明が減ったということは厳密には言えませんが、仏教を勉強したり瞑想したりすることで厳密ではありませんが1と2が減ったと言っても悪くはないと思います。
例えば瞑想によって悟らなくても気づきがあることにより煩悩が生じず一生を送れれば、瞑想せずに煩悩だらけで過ごすより結果は明らかです。
不善心所の中で最も根深いものが痴(無明)と貪(渇愛)です。
縁起の教えでは無明が縁によって行が生じ...などと説かれ四聖諦の教えでは渇愛が苦の原因と説かれています。
ゴータミー精舎で4月3日のアビダンマ勉強会は仏教用語の解説ですので続けて勉強していない方でも参考になると思いますのでぜひご参加ください。
幸せでありますように。