2009年12月26日土曜日

スカ沙弥物語の出典について

スカ沙弥物語の出典についての質問

協会ホームページ巻頭法話62の中にあるものですがどの経典に書いてあるものか教えてほしいとの質問がありましたのでお答えします。

ダンマパダ註釈書第2巻、55ページ(ビルマ第六結集版)


この話の中のスカ沙弥になる前世でバーラナシーで樵をやって生計を立てていました。ある日街に出てきたときガンダ長者が食事をするのを見て同じものを食べたくなり、同じ食事を食べるために三年間ガンダ長者のもとで働きました。三年間しっかり働いた褒美にガンダ長者と同じ食べ物をやっと食べれることになりました。

その時、ちょうど滅尽定から出たばかりの独覚仏が彼のもとに托鉢に来ました。
独覚仏が托鉢に来た時、彼は自分が三年間働かないと食べれない境遇に生まれたのは過去においてお布施の功徳を積んでいなかったからだと考え、自分が食べたいという欲を取り除き三年間苦労してえた全ての食事を「生まれるたびに食べ物に困ることなく将来、尊者が得た智慧を自分も得ることができますように」と誓願して独覚仏にお布施しました。

その話を聞いたガンダ長者は自分も彼の得た功徳を分けてほしいと彼に自分の財産の半分を与えました。同じく話を聞いた王も自分も功徳を得たいと彼に財産を与え樵はバッタバーティカ長者と呼ばれるようになりました。

その生から生まれるたびに天界、人間界での幸せを享受し釈尊が在世中にサーリプッタ尊者の信者の家に生まれ7歳で出家して直ぐに阿羅漢果を得ました。

直ぐに悟るような人は過去において色々な功徳を積んできたという有難いお話です。


話はおもいっきり変わりますが

先日、広瀬さんに車を出していただき正田さん上田さんと一緒に伊勢神宮を案内していただきました。
ありがとうございます。

2009年12月17日木曜日

新興宗教の教祖の称号と功徳

日本の新興宗教団体がテーラワーダ仏教国のお寺から仏舎利を贈られたり、名誉称号を贈られたりしていますが、これはどのように理解したらよろしいのでしょうか?


テーラワーダの国のお坊さんはお布施してくれる人は熱心な仏教徒だと思っているのではないですか。

いっぱいお布施すればお布施した功徳で何か称号みたいなものをあげているのでしょう。


知る限り法華経や般若経を信仰していたり、超能力開発を目的としていたり、現世利益を謳っている団体ですが、テーラワーダの教えからすると邪見にはならないのでしょうか?

その教団の詳しいことは知りませんが、その教えに業論、善因楽果、悪因苦果の教えがあればまだましですが、厳密に言えばテーラワーダ仏教からみると邪見ですね。




そういう新興宗教や信者さんが繁栄しているのを見聞きすると「善因善果の因果法則のお陰だろう」と推測し、正しい仏教の教えなのではと思ってしまい、そちらに入会してみたくなります。どのように解釈すればよいのか教えてください。

その教えが正しくなくても過去の善業が今生で結果を得ていれば成功する場合もあります。
本人の努力や経営的なセンス、世界の経済状況など色々な要素を考えないといけませんので業一つだけで成功するわけではありません。

現在、経済的に成功している人が信じているからといってその教えが正しいとは限りません。

正しい教えを実践しても今生で経済的に成功しないかもしれませんが、今生の善業は未来の生で良い結果を受けられる縁となると思います。






この世で生きるにはお金はもちろんないよりあったほうがいいですし、多くの人がそう思って、家族や自分のために忍耐して一生懸命働いたり、智慧を使ってビジネスで増やそうとしていますが、仏教では修行者にはお金への欲・執着、物への欲・執着を捨てなさいと教えているんですよね。



そうです。


功徳も、この世で生きるにはないよりあったほうがいいし、徳の高い方は尊敬され願望も叶いやすいと聞きます。


そのとおりです。


金が欲しい、金が欲しい」は欲望だと分かりやすいですが、「徳が欲しい、徳が欲しい」は欲望にはならないのでしょうか?
もし徳を積む時に、単に「善いことだからしよう、困っているから助けよう」という気持ちではなく、「願望成就のために、利益のために、名誉のために、功徳が欲しい!もっと欲しい!」と思って徳を積もうとするのも善因善果になるのでしょうか?

功徳を積む瞬間は善心が生じていますので欲望ではなく良い意欲といいます。

その善心の前後に称号や名誉などが欲しい心は貪欲ですが、お布施する瞬間の心は善心、功徳です。
功徳を積むたびに、「この功徳が涅槃を得る縁となりますように」と願がうのが一番です。

この功徳で大金持ちになりますようにだと欲が含まれて問題ですけれども、何も徳を積まないよりはましです。

できれば豊かになったときのその経済力を使って社会や人々の幸せのために使いたいと願えばいいでしょう。

ただ経済的な成功など願わなくても仏教徒として当然のことだと思って「この功徳が涅槃を得る縁となりますように」と願えば、お布施の功徳などの法則で自然と豊かになると思います。




お坊さんと頻繁に会える、一緒にどこかに行ける方、というのはやはり徳が高いからでしょうか?

吉祥経にお坊さんと会えるのか吉祥だとあります。

依存的な心が強くなければ良いことだと思います。


何かをする時に、経済的な費用の捻出が難しい人は徳がない人と考えて間違いないでしょうか?

経済的な力と精神的な徳のあるなしは一緒にすべきではありません。

貧乏でも精神的な徳の高い人はいますし、金を持っていても精神的な徳のない人はいます。

経済的な業の良さという意味では功徳が多いといえるでしょう。



そうなのですか?例えばどなたでしょうか?

お釈迦様の弟子で過去生で阿羅漢に対して行った悪業で本人が阿羅漢になっても托鉢でお布施をもらえず苦労した仏弟子がいます。

死ぬ間際にサーリプッタ尊者がバターと蜂蜜などを混ぜた薬をお腹いっぱい食べさせてあげただけで生まれて一度も満足に食べることができなかったそうです。

この阿羅漢は過去の悪業によって現世で一生の間、貧乏です。




大変失礼な質問になってしまうかもしれないのですが、テーラワーダ仏教の国は日本や西欧等と比較して経済的には豊かだとは言えない状況だと思うのですが、なぜですか?
タイでは貧しい人(ホームレスや孤児)は過去生における悪行為の結果なので仕方ないという理由で、だいたいの人があまり気にもしないし助けないそうです。
これも因果法則の結果だからしょうがないんでしょうか。


人間以上の世界に生まれるのは善業の結果です。貧乏な家に生まれるのは過去の悪業の影響ですが貧困が存在すのは現実の社会システムの問題でもあります。

貧しい人を悪業の結果だからほっとくというのは別問題ですし、国や豊かな人ができる限り助ける必要があると思います。

今生の努力などで貧乏な生まれでもお金持ちになるのは、業も関係しますが今生での努力や智慧、その時の経済状況も関係すると思います。


そしてミャンマーもどうして経済的貧困が続いているのでしょうか?とても信仰が篤く優しく親切な方が多い(半分想像)のに。
そして仏教国の誇りを持ちながらもどうしてミャンマーの方々は日本やアメリカやヨーロッパ等先進国(豊かな国)に行きたがる・住みたがるのでしょうか?



ミャンマーはイギリス、日本の植民地から独立した後、約10年ほど民主主義でしたがその後はずっと軍事政権です。

貧困の原因はビルマ式社会主義や軍事政権の経済運営の失敗などの政治的な要因も大きいです。

マハーシ長老の法話でその話が出てきました。

お布施の功徳があってもミャンマーに生まれ変わってくるにふさわしい豊かな家が少ない。

生きているときに先進国に経済的にあこがれているのでその憧れの心の力で先進国に生まれる。

私の考えですが天界に生まれてる人が多いのではないでしょうか。

ミャンマーの国が自由で経済的に豊かな国なら殆どの人は態々外国に出稼ぎしたり移民はしないでしょう。
日本も戦後しばらくは新天地を求めて外国に移民してた歴史があります。



ダンマから離れた国に生まれるのは不幸なことだと聞きましたが、日本に生まれたということは善行為の結果なのでしょうか?悪行為の結果なのでしょうか?

現在日本にはテーラワーダ仏教の教えがありますし、戦争をしている国や食べ物に困るような国と比べたら格段に良い所に生まれていると思います。

繰り返しになりますが人間以上の世界に生まれるのは善業の結果です。悪業の結果で生まれ変わると地獄、畜生、餓鬼、阿修羅の世界に生まれ変わります。





過去生で何かお布施や波羅蜜を積んだ結果なのでしょうか?
少しは自信を持ってもいいのでしょうか。


人間に生まれて仏教に出会い、瞑想や仏教の勉強をしてみようという信がある人は自信を持っていいでしょう。

現在日本に生きているというのは事実ですから、智慧を持って努力するだけだと思います。

幸せでありますように。

2009年12月15日火曜日

読経やお経を聞くことの功徳について

意味が分からなくてもパーリ語の読経をすることに功徳があるというお話や、パーリ語日常経典でも「聞くだけでも幸福を獲得します」と書かれていてす。
読経やお経を聞くことの功徳について教えてください。






業の話にも関係しますが善心が生じれば楽の結果を受けるので功徳があると言えます。

仏教徒がパーリ語のお経を有難いと思って聞けば善心が生じる可能性が高いと思いますので、ただ聞いただけでも功徳があるといえます。

伝統的には
正しいパーリ語の発音で意味をしっかり理解したうえで心をこめてお経を唱える。
聞く人も意味を理解したうえで敬虔に聞くと大きな功徳があると言われています。


ですからミャンマーやタイではパーリ語を在家の人に唱えさせるときはその国の言語でも唱えさせます。
日本語だけでも三帰依、五戒を唱えても何の問題もありません。

ただテーラワーダ仏教はパーリ語で伝えらてきているのでパーリ語を重視して唱る伝統です。


現在のパーリ語の正しい発音というのがお釈迦様の時の発音と同じかとは仏教文献学者などの意見は色々とありますが、それぞれのテーラワーダの国の正しい発音で唱えれば正しいと解釈するのが無難だと思います。




註釈書の中に真実語を唱えると力があるという話が多く出てきます。

インド文化では普通の概念だと思いますがマントラに力があるというの原因にもなっているのかもしれません。

マントラは意味が分からなくても有難がってとなえますが、この真実語の概念は良いことでも悪いことでもその言葉が正しければ力があるというように信じられています。

ある人が毒蛇にかまれて死にしそうになっていた時、その関係者が色々な真実語を唱えます。
例えば私は結婚してから主人の事をずっと好きではなかった。
バラモンが唱えたのは、私が出家してから長い間出家生活を楽しんでいなかった。

別な話ではもの心ついて以来、故意に殺生したことがない。
その真実語を唱えると病気が治ったりする話があります。


五戒文を唱えることも功徳はありますが、守るために唱えているのが本来の目的です。
慈経もどのように実践するか説かれたお経ですから慈の心をおこさないと本来の意味から離れると思います。

薬の名前や効能書きを唱えても実際に飲まないと薬の効果はありません。

ミャンマーのモウゴッサヤドーの話の中で普通の人々は飲み薬を飲まずに塗るようなことをしていると説法しています。

功徳があるかないかと考えるより、その時の心が善心か不善心かと考えれば分かりやすいと思います。

幸せでありますように。

2009年12月11日金曜日

扉のお布施


本堂トイレの入り口の扉を会員の関さんにお布施していただきました。
ありがとうございます。

2009年12月5日土曜日

お布施とは⑤

渇愛の三段階

渇愛とは
① 随眠渇愛
② 纏渇愛
③ 犯罪渇愛の三種あります。

随眠渇愛とは衆生の蘊の相続に常に潜んでいるといわれている渇愛です。

随眠渇愛は生住滅というようにはっきりと生じるものではありません。

マッチの先の火薬に火が生じる力が潜んでいるように、潜んでいるのさえ分からないようにある渇愛です。

纏渇愛とは所縁と触れることにより蘊の相続の中に生起する渇愛の種類です。

マッチを擦って火がついた状態です。


  犯罪渇愛とは蘊の相続に生じた渇愛を抑えることができず実際に言葉、身体の行為によって悪行をなすような渇愛です。

マッチの火がついて持っているマッチ棒が燃えた上に他の場所をも焼くようなものです。

この三種の渇愛の中で随眠という渇愛は生住滅としてはっきり存在する渇愛ではありません。

はっきり生じていない渇愛なので随眠渇愛は地獄、畜生、餓鬼、阿修羅という悪趣に直接落とす働きはありません。

しかし、随眠渇愛があれば纏渇愛や犯罪渇愛の原因となり機会があればそれらを生じる可能性があります。

それらが生じると大変です。

それらが地獄まで落とす力を持っていますから。




続く