笑いを起こす心は89心中、13心で笑うといわれています。
笑いの心は喜倶(喜びの感覚を伴う)のみで憂いや捨の感覚では生じません。
ですから不善心12の中では捨倶貪根心4、瞋根心2、痴根心2は対応しません。
大善心8、大唯作心8の中でも捨倶心は対応しません。
唯作心(引転心2以外)とは阿羅漢にしか生じず、結果を与えない機能するだけの心です。
その中に無因心18の中の笑起心(阿羅漢の笑いを起こす心)も含まれます。
凡夫(悟ってない衆生)は不善心4と善心4の合計8心で笑います。
有学(預流道から阿羅漢道までの聖者)は邪見がないので悪見不相応不善心2と善心4の合計6心で笑います。
阿羅漢果(仏陀も含む)は唯作心で笑いますので大唯作心4と笑起心1の合計5心で笑います。
【不善心で笑う場合4】
①喜倶 悪見相応 無行 貪根心
喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応し働きかけがない心
②喜倶 悪見相応 有行 貪根心
喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応し働きかけがある心
[預流道から悪見相応心(邪見)は生じません]
③喜倶 悪見不相応 無行 貪根心
喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応せず働きかけがない心
④喜倶 悪見不相応 有行 貪根心
喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応せず働きかけがある心
【大善心で笑う場合4】
①喜倶 智相応 無行 大善心
喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがない心
②喜倶 智相応 有行 大善心
喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがある心
③喜倶 智不相応 無行 大善心
喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがない心
④喜倶 智不相応 有行 大善心
喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがある心
【大唯作心で笑う場合4】以下阿羅漢のみに起こる心です
①喜倶 智相応 無行 大唯作心
喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがない心
②喜倶 智相応 有行 大唯作心
喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがある心
③喜倶 智不相応 無行 大唯作心
喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがない心
④喜倶 智不相応 有行 大唯作心
喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがある心
【無因 喜倶 笑起 唯作心1】
阿羅漢の笑いの心(微笑み)
お釈迦様の徳を称えるのに
『全ての身口意の行為は知恵が先行する(知恵の後を行く)』
とあります。
ある意見によると笑起心は無因なので慧心所(知恵)が伴わないので仏陀には生じないと考えています。
(たぶん智不相応唯作心2も外すのでしょうか?)
多くの長老の考えは笑起心が無因で慧心所(知恵)は無くても、その心が生じる前に知恵の心が生じるであろうから問題視しません。
例えばある時お釈迦様が雌豚を見て微笑んだとあります。
神通力によってその雌豚の過去生が梵天で、
その後天界に生まれ変わり、
天界での業が尽きて過去の悪業によって畜生として生まれたとご覧になりました。
神通力が生じるときは第五禅定の心が生じますので、必ず知恵が伴っています。
その後、微笑まれた時には5つの心のどれかで微笑んでいるので笑起心も含まれます。
微笑んだ理由は註釈によると自分は完全に解脱し、もう二度と生まれ変わることは無く、このように輪廻の苦しみを味わうことはないと考察し微笑んだとあります。
ですから解釈をする場合は多くの長老が受け入れている考えは、受け入れる理由があるので、その理由をしっかり理解した上で経典を読んでいかないといけないと思います。
幸せでありますように。