2009年7月26日日曜日

笑いを起こす心


笑いを起こす心は89心中、13心で笑うといわれています。



笑いの心は喜倶(喜びの感覚を伴う)のみで憂いや捨の感覚では生じません。



ですから不善心12の中では捨倶貪根心4、瞋根心2、痴根心2は対応しません。



大善心8、大唯作心8の中でも捨倶心は対応しません。



唯作心(引転心2以外)とは阿羅漢にしか生じず、結果を与えない機能するだけの心です。



その中に無因心18の中の笑起心(阿羅漢の笑いを起こす心)も含まれます。





凡夫(悟ってない衆生)は不善心4と善心4の合計8心で笑います。



有学(預流道から阿羅漢道までの聖者)は邪見がないので悪見不相応不善心2と善心4の合計6心で笑います。



阿羅漢果(仏陀も含む)は唯作心で笑いますので大唯作心4と笑起心1の合計5心で笑います。




【不善心で笑う場合4】

喜倶 悪見相応 無行 貪根心

喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応し働きかけがない心



喜倶 悪見相応 有行 貪根心

喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応し働きかけがある心

[預流道から悪見相応心(邪見)は生じません]



喜倶 悪見不相応 無行 貪根心

喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応せず働きかけがない心



喜倶 悪見不相応 有行 貪根心

喜びの感覚を伴い悪見(邪見)が相応せず働きかけがある心





【大善心で笑う場合4】

喜倶 智相応 無行 大善心

喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがない心



喜倶 智相応 有行 大善心

喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがある心



喜倶 智不相応 無行 大善心

喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがない心



喜倶 智不相応 有行 大善心

喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがある心






【大唯作心で笑う場合4】以下阿羅漢のみに起こる心です

喜倶 智相応 無行 大唯作心

喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがない心



喜倶 智相応 有行 大唯作心

喜びの感覚を伴い智が相応し働きかけがある心



喜倶 智不相応 無行 大唯作心

喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがない心



喜倶 智不相応 有行 大唯作心

喜びの感覚を伴い智が相応せず働きかけがある心



【無因 喜倶 笑起 唯作心1】

阿羅漢の笑いの心(微笑み)





お釈迦様の徳を称えるのに


『全ての身口意の行為は知恵が先行する(知恵の後を行く)』


とあります。


ある意見によると笑起心は無因なので慧心所(知恵)が伴わないので仏陀には生じないと考えています。

(たぶん智不相応唯作心2も外すのでしょうか?)



多くの長老の考えは笑起心が無因で慧心所(知恵)は無くても、その心が生じる前に知恵の心が生じるであろうから問題視しません。



例えばある時お釈迦様が雌豚を見て微笑んだとあります。



神通力によってその雌豚の過去生が梵天で、


その後天界に生まれ変わり、


天界での業が尽きて過去の悪業によって畜生として生まれたとご覧になりました。




神通力が生じるときは第五禅定の心が生じますので、必ず知恵が伴っています。



その後、微笑まれた時には5つの心のどれかで微笑んでいるので笑起心も含まれます。



微笑んだ理由は註釈によると自分は完全に解脱し、もう二度と生まれ変わることは無く、このように輪廻の苦しみを味わうことはないと考察し微笑んだとあります。



ですから解釈をする場合は多くの長老が受け入れている考えは、受け入れる理由があるので、その理由をしっかり理解した上で経典を読んでいかないといけないと思います。



幸せでありますように。

2009年7月11日土曜日

業の例え

アラナ精舎のアビダンマッタサンガハの勉強会がやっと八章の終りに近づきました。


八章は縁について解説されており非常に難しい所です。


その中の業については興味がある人が多いと思いますので例えで紹介してみます。


分からない用語はとばしてください(笑)


これは例えですので本当に何か変化しないでどこかの空間(アカシックレコード?)や心 (アラヤ識、マナ識?)に蓄積されていると思われると困るのですが例えを使ったほうが理解しやすいと思いますのでその点をご理解ください。


二つのタンクに水が溜っていて一つの蛇口のノブをひねると黒い汚れた水が出(不善業の異熟)、


もう一つの蛇口のノブをひねるときれいな水がでます。

(善業の異熟)


タンクの中黒い汚れた水は過去の不善業、


もう一つのタンクの中のきれいな水は善業の例えです。


(業とは善、不善の心に伴う思心所です。この思心所に身口意の行為の原因となる力がありそれが心の連続の中に潜在力として残り将来の業果、異熟という結果を与えると言われています)


二つのタンクの水は基本的に過去世の善業、不善業によって溜ります。


それは前世かもしれませんが100万生前かもしれませがどんどん溜り続けています。


また蛇口のノブをひねることは現世においての善業、不善業の例えでもあります。


蛇口のノブをひねることは今出ている水とは関係ありませんが、


(蛇口のノブをひねること自体が今出ている水を創造しているわけでないという意味です)


来世以降使える水がタンクの中に、蛇口のノブをひねる力加減によって溜ります、


今の善業は過去の善業を引き出す支持業

(自分自身では異熟を結ぶことはないが、他の業が異熟をもたらす際にはその機会を与え、また他の業の作る異熟の勢力を盛んなるようにその業に力を貸し、他の業が異熟を結んだあとには、その異熟が長く存続するように援助する業)


や不善業への妨害業

(令生業に異熟をもたらすための機会を与えない。或いは既に機会を得ている場合には、そのもたらす異熟の勢力の力が弱まるように令生業の力を削ぐ。或いは既にある異熟が持続しないように妨害する業)となり、


その今の善業自体は来世以降の令生業(結生時、或いは生起時に異熟心・心所、業生色などを生じさせる業)なります。


また今の不善業は過去の不善業を引き出す支持業や善業への妨害業となり、


その今の不善業自体は来世以降の令生業となります。


今生の善、不善の業が今生で直接結果を与えるのは非常に稀です。


現法受業(現世で直ぐに結果を与える業 例:滅定からでた阿羅漢にお布施し急に今生の業の力によってお金持ちになるような業、阿羅漢の比丘尼を強姦し急に死ぬような業)や出世間の道心の業です。



現法受業は条件が難しく簡単に生じるものではありませんし、


出世間の道心(善心)は凡夫から聖者に生まれ変わるぐらなような強いものですからこれも特別で出世間の果心(異熟心)を、間をあけることなく生じさせます。


黒い水のタンクにつながる蛇口のノブをひねらずに、きれいな水につながるタンクを蛇口のノブをひねり続け、最後には両方の蛇口のノブを壊して水が出なくしまうことによりどんなに水が残っていようが関係なくしてしまします。



この蛇口の特徴はノブとは関係なく勝手に漏れてくる場合があることです。


人によっては良いことばかりやっていても悪いことが立て続けに起こる場合があります。

ノブをひねらなくとも黒い水が漏れ出ています(笑)



悪いことばかりやっていても良いことが立て続けに起こる場合もあります。

ノブをひねらなくともきれいな水が漏れ出ています(笑)



ですから蛇口のノブをひねることができないようにした阿羅漢でも漏れ出た水である色々な業の結果を生きている限り受け続けるというわけです。



書いているうちにだんだん無理がある例えだと思いましたが参考になれば幸いです(笑)

2009年7月8日水曜日

新興宗教と業

先日、大分から車で福岡までの移動中に新興宗教の話になりパターンは同じで騙されているのかと改めて感じました。


ある人が病気になると親切にお見舞いや相談に行き、ちょっと良いところがあるのだけど行きませんかと誘う(新興宗教は自分たちのことを宗教だと言わない)


入会してみると病気が治る(入会金は安いか只)


たまたま治った病気が信仰のおかげだと勘違いする。


そのうちまた病気になる。


周りから病気になったのは信心が足りないと言われる。


最後に亡くなると周りから信心が足らないから死んだと言われる。





これを読んで馬鹿らしいと思う人は以下も、馬鹿らしいと思うでしょう。


たとえば商売を始めるために土地を購入したが、地元の反対にあい出店できなかったことを悪魔のせいにする人をどう思いますか?


普通の常識があればその商売のイメージが悪く地元の住民の理解を得られなかったと思うのが普通でしょう。




会社のプロジェクトを巡って社員間の仲が悪くなったとしたら反対意見の人を悪魔のせいにしますか?


ただ意見が合わないだけでしょう。




会社の運動会で雨が降ったら悪魔のせいにしますか?


ただ天気が悪いだけでしょう。



日本で宗教が話題になるときは詐欺などの犯罪で、自分で仏教を勉強し冥想を実践していると堂々と言うことができない日本だからこそ、仏教は宗教ではないと言わなければならない状態になっているのかと思います。



世界的に見て何か宗教を信じているのはまともな人間で何も信じていない人間のほうが危険視されると思います。




しかし、日本では何か宗教を信じていると迷信深い騙されやすい人と烙印を押されるような状態です。


お釈迦様は完全に悟って他の人類と比較にならないほど優れた方ですが、分類すれば人間です。



同じようにお釈迦様の教えも他の宗教と比較にならないほど優れた教えですが、分類すれば宗教です。




この理屈さえ分からない人がいること自体が、

私がテーワラーダ仏教は宗教だと思うと言ったら許せない人がいること自体がその人が嫌いな宗教だと証明しているようなものです。(笑)



日本テーラワーダ仏教協会は宗教法人です(笑)



本気でテーラワーダ仏教が宗教でないなら宗教法人に申請しないでしょう。



宗教法人化はスマナサーラ長老自ら進めたことだと、ご本人から聞きました。



東京都が認証してくれるのは協会が宗教だと思うからでしょう。



本題は病気と業についてです。


仏教ではたとえば病気の原因を全て業のせいにはしません。


業、心、時節、食の四つが原因となっています。


宗教ですと業や心を強調します。


もちろん業が原因となることもあるでしょうが原因の全てではありません。


心が全ての原因なら悟った人は病気になりません。


しかし、悟っても病気になりますし最後には死にます。




暑いところに長くいれば熱射病になったり、

寒いところに長くいれ凍傷になったりカゼを引く場合があります。




自然食の健康法などを実践している人は、食べ物が病気の原因だと言います。


悪いものを食べ続けると病気になる確率があがりますが、

たまに少々悪いものを食べても大丈夫な人もいます。



仏教では単純に一つが原因とは見ません。



いろいろな原因が組み合わさって結果が起こります。


病気になるような業を持っていても残りの三つの心、時節、食に気をつけていれば病気にならないかもしれませんし、死ぬような病気も回復するかもしれません。



このようにバランスのとれた見方ができると騙されることはありません。


業とは過去の善、不善の心の思心所のことを言います。


思心所が心所のリーダーのようなものだからです。


簡単に言えば身体や言葉による行為も心が原因となっていますので

その原因となる善、不善の心の力が業となると思ってください。

ですから思心所が潜在力・業となって将来、結果としての業果や異熟心が生じます。



業の働きは具体的に知ることができるのはお釈迦様の知恵をもってできるので


それ以外が、人が病気になったのを直ぐに過去の悪業だとは決めつるべきではありません。


しかし、身体的な苦しみの感覚は悪業の結果だとは言えます。




詳しく知りたい方はアビダンマを勉強しましょう(笑)

2009年7月1日水曜日

思考と妄想


広辞苑より

しこう【思考】

思いめぐらすこと。考え。

〔哲〕(thinking)

ア 広義には人間の知的作用の総称

イ 狭義には、完成や意欲の作用と区別して概念・判断・推理の作用をいう。知的直感をこれに加える説もある。



もうそう【妄想】

〔仏〕(モウゾウとも)みだりなおもい。正しくない想念。

〔心〕根拠のない主観的な想像や信念。病理的原因によって起こり、

事実の経験や理論によっては容易に訂正されることはない。


私の言葉の定義は妄想とは①すべての不善心、

瞑想中は善、不善の取り留めの無い無駄な思考



(アビダンマに興味が無い方は☆まで飛ばして読んでください。)


テーラワーダ仏教では89種類の心があると説かれています。

欲界心54心の中に

不善心12 (貪根心8、瞋根心2、痴根心2)

無因心18 (善無因異熟心8、不善異熟心7、無因惟作3)

大善心8、大異熟心8、大惟作心8


あと色界心15、無色界心12

出世間心8の心があります。


この35心が生じている間は思考しません。



しかし悟ったからといって、ずっと出世間心が生じ続けているわけではありません。


冥想して果定に入っている間は出世間心ですが、普段の心は欲界心です。


欲という字が入っているので悪いと勘違いしないでください。


仏陀や阿羅漢は善心の替わりに惟作心(結果を残さない心)が生じます。


善心は良い結果を与えますが、阿羅漢には良い結果を与える善心は生じず惟作心が生じます。


機能は違いますが意味的には良い心です。


☆☆☆☆☆☆☆



お釈迦様は悟った後、普通に説法していましたが、

出世間心(涅槃を対象として同じ種類の心が生じ続ける)で説法はできません。


仏弟子を指導していましたが出世間心では指導はできません。


説法するときに思考を使いませんか?


悟った人が妄想しているという意味ではありません。


仏陀や阿羅漢は煩悩を完全に取り除いたわけで、思考を完全に取り除いたのではありません。



もちろんヴィパッサナー瞑想中には良い思考であってもするべきではありません。


しかし、ラベリングは思考を使っています。


適切なラベルを思考を使って言語化しているでしょう。


マハーシ冥想センターでも週に一度、外国人向けに法話がありますが、

よくある質問で今の法話中も「聞こえる。聞こえる。聞こえる。」とやるべきですかと聞く人がいますが

サヤドーは「ラベリングしないでしっかり聞いてください。」と答えています。



例えば日常生活で車を運転しているときに、

信号を「見える。見える。見える。」と本気でやるとどうなるか想像してみてください。


信号が変わって反応できるのは思考を使っていませんか?


青、黄色、赤のライトは唯の色であって、青に進めという意味はありません。


本を読んで意味が分かるのは思考を使っていませんか?


文字は紙の上に黒いインクで色が付いているだけです。


人と会話するとき思考をつかっていませんか?


音そのものに意味はありません。


私はとりとめも無く考える妄想を認めているわけではありません。


しかし、日常生活において正しい思考は使うべきだと言っているだけです。


止めるべきなのは不善心です。それを妄想と定義すれば分かり易いと思います。


善心においての思考は問題ありません。


冥想中はたとえ良い思考であれ、無駄な思考にはまらないように注意すべきは言うまでもありません。


凡人が良い思考を止めようと努力すると悪い思考が残るだけです。


正しい実践方法は日常生活において悪い思考を止め、

良い思考を増やしていき、

さらにヴィパッサナー冥想で良い思考でさえも乗り越えることです。




一切の悪を犯さないこと。

善に至ること。

心を清らかにすること。

これが諸仏の教えである。(ダンマパダ)


「一切の思考をなさないこと。これが諸仏の教えである。」ではありません。




スマナサーラ長老に私は日本で活動できるチャンスを与えて頂きいつも感謝しています。

長老の深い智慧からなされる法話の一部をとって批判するつもりはありません。


一部の狂信的な人が、私の発言に長老と少しでも違うと許せない人がいるようです。

少々表現が違おうがその人が何を言いたいのかと考えれば済むことだけですが言葉の表面しか見ない人が多いのは悲しい限りです。




幸せでありますように。