2009年6月29日月曜日

仏像の供養について




お釈迦様や阿羅漢が入滅し遺体を火葬した骨を舎利といいます。


仏舎利は仏塔の中に納められ仏教徒の礼拝、供養の対象となっています。


仏滅後、数百年の間は仏像はなく仏塔や菩提樹などが供養されていたのが、次第に仏像があらわれ信仰の対象になってゆきました。


日本では本尊という言葉がありますが、それは阿弥陀仏などのいろいろな仏や弥勒菩薩などがあるのでその寺で一番大事に供養しているものを本尊と言っているのではないでしょうか。


宗派の最も重要な経典に関連する仏像が本尊になっているのかもしれません。



テーラワーダ仏教では仏陀だけが信仰の対象ですので本尊という必要もないと思います。


例えば本堂に安置しているのが本尊で他の仏像は本尊ではないというのはおかしいと思います。

お釈迦様同士上下はありません。


ミャンマーでは建物や部屋の一番奥にまとめて供養されている場合がほとんどです。


玄関にインテリアのように置くことは考えられません。


以前、西洋人がドアのストッパーに使っていたと書いている本を読んだことがあります。


ミャンマーの占い師は誕生曜日に合わせて仏像の素材を選んであげています。


例えば月曜日が大理石、火曜日が翡翠などのようにです。


水曜日生まれなのですが何製の仏像がいいですかなどと質問しないでください(笑)




以前、小火を出した家に呼ばれたのですが、一緒に行ったある長老が言うには「今、家で供養している仏像が火を呼び込んだので、他の仏像に変えたがいい」と言ったので吃驚しました。


火事の原因にされたらいい迷惑です。


私なら「全焼しなかったのはこの仏像のおかげなので更に大事に供養しなさい」と言いたいぐらいです。


その後、マンダレーにある有名なマハーミャムニ仏は毎日大量の花をお供えしているのですが、そのお供えした花を燃やした灰を固めて作った五頭の象が台座になっている仏像をお祭りすると商売繁盛になると薦めれれたそうです(笑)


ミャンマーでは動物が台座になっている仏像は普通作りません。


金箔を貼った有名な仏像しか功徳がないと思うビルマ人も多いのですが、そのような考えを諌める話をよく聞きます。


ある仏教徒がこれから有名な仏像やパゴダをお参りに行くのを近所の人に自慢しているのを聞いてた老人が、「そんな大きな声で皆に言うんじゃないよ。お前の家で供養している仏像に聞こえるじゃないか。気が引けないの。」と言ったそうです。




本来、仏像などは仏陀の徳を思い浮かべやすくするためにあるもので、本当の対象は仏陀の徳であるべきです。


それが特定の仏像は霊験があり、病気が治り、願い事がかなうなどと訳の分からないことが平気で言われだします。


仏舎利についても私は本物かどうかは気にしません。


偽物を本物と信じる必要もありません。


仏像を供養するように、同じように供養すれば功徳は得られます。


幸せでありますように。

2009年6月22日月曜日

私が無いのであれば、善、不善の業はだれが受けるのですか?


先ず、私とは何かと考えなければなりません。


仏教では車の喩えが有名ですが、車を細かくタイヤ、シート、ハンドル、エンジン、ボディなど部品に分けていくとその一つ一つは車と呼ぶことができないように、私も髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚などに分けていくと、瞬間瞬間、生滅している物質と心を仮に私と呼んでいるといえます。


アビダンマでは、

心    対象を認識する本質、

心所   心と相応して生じる本質

色    温度などによって変化する性質

涅槃   全ての苦の寂滅という性質


の四つを勝義諦(第一義)と呼びます。


ですから勝義諦でいえば私は心、心所、色の集まりです。



不善業である殺生について勝義諦的な説明をすれば

ある心、心所、色の集りの連続が、ある心、心所、色の集りの連続のなかの命根の流れを早く止めたことを殺生といいます。


こんな説明を聞いても分かりにくいので私がある生命を殺したと言えば分かりやすいですね(笑)



私が無いと言うときに、永遠に続いていく実体である真我のようなものを否定しているわけで、普段使っている私という言葉を否定しているわけではありません。


お釈迦様や仏弟子でも私やあなたなどの言葉を使って会話しているわけですから。



普通の私やあなたなど使う説法を    

説示=経蔵(スッタンタ)、律蔵と言い


心、心所、色などの勝義諦を使う説法を 

第一義説示=論蔵(アビダンマ)と言います。

 

過去に犯罪を犯した後に記憶喪失になっても、記憶が無いので私には責任がないといえないように、

仏教でも過去世の善、不善の業が将来の生に影響を与えて、そのときの心、心所、色の流れを仮に私と呼ぶわけです。



ですから私という永遠に続く実体は無く、心、心所、色の瞬間瞬間の流れの中で善、不善の業を行い、その業の結果を将来の心、心所、色の流れである、未来の仮に呼ぶ私が受けると言ってもいいと思います。



幸せでありますように。


2009年6月14日日曜日

久しぶりに質問と答え

冥想と呼吸についてですが、ヴィパッサナー冥想は自然体で行い、自分で呼吸を速めたり、長くしたりなど、呼吸を勝手に変えたりせずに行う方がよいのでしょうか


一方、サマタ冥想である「慈悲の冥想」は、呼吸を使って気持ちを高めたり、想像力を豊かに働かせて、自由な感じで行ってよいでしょうか



ヴィパッサナー瞑想は呼吸をコントロールしないのが基本です。しかし、私は眠いときや考え事が多いときは意識を切り替えるために意識的に腹式呼吸をすることを勧めています。眠い状態でだらだら続けるよりは、コントロールしてでもその状態から抜け出したほうが良いからです。


ただ普通の状態では自然な息によって生じるお腹の動きを観察します。


慈悲の瞑想は、親しい人などのイメージを使って実践します。親しい人たちが幸せそうにしているイメージなどを使ってもいいと思います。呼吸を使って気持ちを高めるという意味が具体的に分かりませんが、特に不自然でなければ悪くないでしょう。




 
禅定に入定するとは、どのような状態ですか。

また、「冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティ」とはどのようなサティですか。


皆さんが何かに集中しているときに考え事が起こらないように、その何百倍も高いレベルの集中なので入定中は考え事など浮かびません。

禅定に興味がある方はパアッ瞑想を実践している人に聞いてください。

禅定に入れる人が多くいらっしゃるそうです。



冥想の障害を燃やし尽くすような連続したサティとは瞑想中に考え事が生じても生じた瞬間に気づく状態です。モグラ叩きでモグラの頭が出るかで無いかの状態で睨みつけると引っ込むような感じで、しばらくすると睨まなくても出なくなるようなものです。お腹の動きも細かく観察することができます。




ただ漫然と冥想に入るより、冥想に入る前の心構えのようなものがあれば教えて下さい。


仏法に出会えてヴィパッサナー瞑想を実践できる状態を非常に貴重なことだと思い浮かべ、自分の寿命がいつ尽きるか分からないことを思い浮かべで真剣に瞑想したらいかがでしょうか。

明るく真剣に、うまくいかなくても自己嫌悪に陥らないで、気持ちを切り替えて実践してください。




冥想中の「昏沈睡眠」と「痴」が、対処に困るという点で、よく似ているという感想を持っています。
 もし、何らかの関連が指摘されているのでしたら、冥想実践には直接関係ないと思いますが、理解を深めるために、教えて下さい。


痴心所はすべての不善心と関係がありますが、痴根心は疑と掉挙です。

昏沈睡眠は貪根心と瞋根心の有行の場合に生じますので心で言えば別物です。

対処に困る点でも完全に根こそぎ取り除くには阿羅漢道でしか取り除くことができない根深いものです。

ただ昏沈睡眠は集中力が高くなれば収まります。


ただ肉体的に必要な睡眠は煩悩ではありません。

お釈迦様でも1,2時間は眠っていといわれています。




懺悔しても罪は残るものと理解していましたが、「滅罪」とはどのような概念ですか。

悪業は善業によって消すことはできません。



悟りの智慧によって過去の悪業を機能しなくすることができるだけです。


アングリマーラ長老が在家のときに多くの殺生を犯しましたが、阿羅漢になり生まれ変わることが無いので、以前なした原因となる悪業は消えたということもできます。


しかし、阿羅漢でも生きている間は、悪業の結果を受けなければなりません。


懺悔をするとは悪業の結果が生じるのを妨害する働きがあり、たとえ生じても弱める働きがあります。


戒律に関してですが、滅罪とは傷が癒されても傷跡が残るようなものです。


傷だらけなのも困りますよね(笑)


幸せでありますように。

2009年6月1日月曜日

教学の危険性

仏教を三つに分けることが出来ます。


教学、 お釈迦様の教えの教義を学ぶ

行道・実践、 戒を守り、サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想の実践

通達・洞察、 実践による理解、悟り


仏教の教義を学ぶのはダムの堤

実践はダムの中の水

理解や悟りはダムの中に咲く蓮の花に例えます。



教義をおろそかにすると水がたまらず花が咲くのは難しいでしょう。

しかし、大量に水が湧き続ければ堤無しでも花が咲くかもしれません。

常識的に考えると堤をしっかりと作れば雨が降るたびに水が溜まっていきます。

いくら水があふれるほど溜まっていても蓮の花の種?がないと花が咲くことはないでしょう。



テーラワーダ仏教の教義を学ぶことの危険性は無いと思います。

馬鹿な人が包丁で人を殺すからといって、家庭で料理をするのに危険だと心配する人はいないと思います。

勉強ばかりして瞑想しないのは問題ですが、勉強も瞑想もしない人よりましです(笑)



もし教義を学ぶのに興味がなければ善い指導者に従って瞑想だけしていればいいと思います。



アビダンマッタサンガハを学ぶメリットはテーラワーダ仏教の教義を体系的に理解できることです。



色々な法話を聞いても、ほとんどの人が良いお話を聞けて良かったぐらいで終わり、今まで聞いた法話などを体系的に理解することが出来ません。



アビダンマの基礎があればどんな人が何と言おうと教義という見地から見ることが出来ます。


例えばサマタ瞑想で禅定を得てからでしか真のヴィパッサナー瞑想にはならないと言われれば、今まで禅定に達することなく実践していたヴィパッサナー瞑想法が不安になり身が入らなくなるかもしれません。



もし基礎的な知識があればこの指導者はこういう見方だけれども、私は別の指導者の解釈の仕方がもっとも納得できるので、私はこの瞑想実践をしますと冷静に判断できます。



新興宗教は、例えば仏教系なら、正しく仏陀の教えを現代に伝えることが出来るのは私たちの教祖様だけて、他の解釈は全て間違いだと言います。密かにその教祖様だけに脈々と一子相伝で仏陀の教えが伝わったのかもしれませんが密教なら分かりますが、テーラワーダ仏教ではありえません。



E証人などは自分の家族でさえも教えに従わなければ悪魔扱いです。

彼らの異常さは理解できるのに自分のこととなると平気で他人を悪魔扱いする人がいるのは悲しい限りです。



テーラワーダ仏教の基礎が分かれば、それに照らし合わせて判断すれば良いだけです。

教祖様が言ったから信じるだけではなく、その教祖様が何を言ってどのように生きているかです。



O真理教の教祖は、強制捜査が入るときに信者に向かって政府や警察に怒りの心を起こさずに慈悲喜捨の実践をしなさいとビデオで説きました。


私はその時、テレビを見ていて、いいこと言うなと思ってしましました(笑)



どんな教えでも全て出鱈目だったら信じる人も少ないでしょう。正しいことも混ざっているので騙されるのです。



高校生のとき微分・積分などやったかもしれません。

理系以外のほとんどの人には試験のため以外、一生使わない勉強だとおもいます。


アビダンマの勉強は我々の心と身体(物質)を詳しく学んでいるだけで瞑想実践、日常生活と乖離したものではありません。



仏教文献学、現代日本の大学でやるような仏教についての学問はヴィパッサナー瞑想実践のためには必要ないと思います。


幸せでありますように。