お釈迦様が亡くなる前に「美しい」と言ったのはどういう意味かと最近何度か聞かれました。
多分以下の部分が間違って伝わっているのかもしれません。
パーリ経典の大般涅槃経(長部第16)
片山一良訳 パーリ仏典 大篇Ⅰ p.219
アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しいことろです。
ウデーナ霊域は楽しいところです。
ゴータマカ霊域は楽しいところです。
サッタンバ霊域は楽しいところです。
バフプッタ霊域は楽しいところです。
サーランダダ霊域は楽しいところです。
チャーパーラ霊域は楽しいところです。
‘‘ramaṇīyā, ānanda, vesālī, ramaṇīyaṃ udenaṃ cetiyaṃ, ramaṇīyaṃ gotamakaṃ cetiyaṃ, ramaṇīyaṃ sattambaṃ [sattambakaṃ (pī.)] cetiyaṃ, ramaṇīyaṃ bahuputtaṃ cetiyaṃ, ramaṇīyaṃ sārandadaṃ cetiyaṃ, ramaṇīyaṃ cāpālaṃ cetiyaṃ.
ramaṇīyā は ramati の動詞状形容詞grd です。
中村元訳では「楽しいところでです」ではなく「楽しい」と訳しています。
美しいという意味は普通ないと思います。
釈尊の生涯p.445原始仏典1春秋社 でもパーリ本には釈尊は「ここで・・・」と上記訳を引用しています。
その後
なおサンスクリット本には、釈尊の感想として、
「この世は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ。」と記されと引用し
最後に中村先生本人の意見で
人が死ぬとき、この世の名残を惜しみ、死に際していまさらながらこの世の美しさと人間の恩愛にうたれる。それがまた人間としての釈尊のありのままの心境であった、と昔のインドの仏教徒も考えていたのである。
と述べています。
たとえ「美しい」が本当であっても、人間の恩愛にうたれる。・・・などは何の根拠も無く2500年以上前の仏教徒の考えまで決め付けているのには恐れ入ります。
ramaṇīyā はサンスクリット語も同じスペルで同じ意味なので違う単語じゃないと「美しい」と訳せないと思います。
楽しいはどういう意味かといえばārāma を僧園という意味で使い本来の意味は「楽しむ場所」です。
ramaṇīyā と ārāma は同じクループの単語です。
五欲を満たして楽しむわけではなく修行を楽しむ場所で悟った人はどんなところでも楽しい場所とであると言っていいのではないでしょうか。
幸せでありますように。