【果と異熟の違いについて】
12月28日のダンマサークルで話題になったそうで、少しコメントいたします。
論旨がずれていたらおゆるしください。
殺生をすると地獄に落ちるなどといいます。
kāyassa bhedā paraṃ maraṇā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ nirayaṃ upapajjati.
阿羅漢を殺すなどしてすぐに地獄に落ちる話がありますが、
地獄に落ちることは来世の話です。
今生では急死するでしょう。
アビダンマでは異熟とは異熟心とその心と同時に生じる心所のことです。
過去の善、不善の行為の結果の心です。
厳密に言うと業生色も含まれません。
過去とは今、瞬間すぎた過去から100億年前の前世など色々です。
しかし、異熟の定義上は過去生からで今生は含みません。
今生の善。不善の行為は来世から結果をもたらします。
例えば飲酒運転で人身事故を起こし刑務所に入るとします。
飲酒が原因で異熟が刑務所に入るという言い方はしません。
仏教的に言えば飲酒により、悪いと地獄に落ちる、軽いと来世で頭が悪くなるなどとあります。
(笑、私も過去生で相当飲んでいたかもしれません)
飲酒して運転しても(止めてください)無事に家につくこともあります。
人身事故をおこさなくとも来世で頭が悪くなるかもしれません。
しかし、日本語では善因善果(多分楽果の間違いだと思います)
悪因悪果(苦果)で悪い結果が今生で起こるのも今生の悪い行為によると思われるでしょう。
普通の言葉上は問題ないと思いますが、アビダンマでの定義の問題です。
何か種を植えると芽がでます。芽は種を縁として生じていますが異熟とは言いません。
芽が大きくなって実って植えたものと同じ種類の種が出来ると、それを異熟と言います。
悪い行為などを縁として今生で結果が起こります。
しかし、その結果はその行為の異熟ではありません。
次回、アラナ精舎のアビダンマで説明しますが、
人間・天人に色界、無色界異熟心はどんなに修行しようと絶対に今生では生じません。
禅定を得て生じるのは色界、無色界善心または阿羅漢になれば色界、無色界唯作心のみです。
色界、無色界異熟心は結生・有分・死の働きですので、それを考えれば答えは出ます。
もっと分かりやすい説明ができればいいのですが、
アビダンマの専門の長老に聞いてみます。
1+1=2という簡単な理由は何かご存知ですか?
色々難しいこと言わなくても、簡単な答えは
「そう決めた」だそうです。
ある宗教団体の教祖は釈尊の生まれ変わりだそうです。
日本は信教の自由があるので、勝手に言ってればいいと思いますが、
テーラワーダ仏教の定義では仏陀、阿羅漢は二度と生まれ変わりません。
信じていない人にはこの定義は意味を成しません。
生まれ変わった本人が言っているんだから、経典が間違っていると思っているのでしょう。
テーラワーダ仏教では勝手な解釈はしません。
まず経典や註釈から見て信憑性があるか?
常識から見て信憑性があるか?
伝統的な解釈を知った上で別の考えを持つのはいいと思いますが
何も知らずに勝手に考えるのは、それば別の宗教になってしまいます。
幸せでありますように。