2012年4月10日火曜日

マハーシ瞑想初心者指導

マハーシ長老によるヴィパサナー瞑想の実践法>             

ヴィパッサナーの洞察瞑想法は自己の内に並列している精神的ナーマ「名」物質肉体的ルーパ「色」現象の本質を正しく理解するために努力することです。

人の中にはっきりと知覚できものが物質、肉体的現象、ルーパ「色」です。

人の身体全体はルーパの集まりで構成されているとはっきりと知覚できます。

肉体的精神的現象は意識または気付きの動きです。


それらは見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるなどが起こる時はいつでもはっきり知覚できます。

このように「見ている」「見ている」「聞いている」「聞いている」「嗅いでいる」「嗅いでいる」「考えている」「考えている」と、私達はそれらを観察または念じることによって気付いていかなければなりません。

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、考える時はいつでも事実に気付いていなければなりません。


しかし初心者はそれが起こるたびに気付くことはできないでしょう。

ですからはっきり見え、楽に知覚できる現象から気付き始めるべきです。

呼吸によって起きる腹部の「膨らみ」「縮み」は常にはっきりしています。

これは『動きの要素』ヴァーヨ・ダートゥ「風界」という物質的性質として知られています。

腹部を熱心に観察する心によってこの動きに気付き始めなければなりません。

息を吸うとき膨らみ、息を吐くとき縮むと分かるでしょう。

この膨らみを心で「膨らみ」縮みを「縮み」と念じ気付かなければなりません。

もしこの動きがはっきりしなければ手の平を腹部に当ててこの動きに気付いて下さい。

早くしたり遅くしたり力強くしたりと呼吸の仕方を変えないでください。

もしそうするとすぐに疲れるでしょう。

しっかりと普通に腹部に生じる膨らみと縮みに気付いていてください。

口で言葉に出さずに心で念じて下さい。

ヴィパッサナー瞑想法においては実際に知り知覚することが重要です。

何と名づけ言い表そうが構いません。

腹部の膨らみに気付く時、始めから終りまであたかも目で見ているかのように気付いて下さい。

(訳者註:イメージ化はしないでください、念じる、気付く、確認するなど同じ意味です)


縮む時も同様です。

膨らみへの気付きは「膨らみ」の動きと同時に起こらなくてはなりません。

動きと心の気付きは標的に石を投げるのと同じように一致すべきです。

縮む時も同様です。(訳者註:ラベリングが号令にならないように)

腹部の動きを念じる時、心がどこかを彷徨うでしょう。

これもまた心で念じなければなりません。


「彷徨っている」「彷徨っている」と一、二度念じていると心は彷徨うことを止めるでしょう。(訳者註:止まるまで何度念じてもかまいません)



その場合、また腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻って下さい。

もし心がどこかに着いたら「着いた」「着いた」と念じて下さい。

そしてまた腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻って下さい。

もし誰かに会っていると想像したら「会っている」「会っている」と念じ、また膨らみ縮みに戻って下さい。


もし誰かに会って話していると想像したら「話している」「話している」と念じて下さい。

一言で言うとどんな考えや回想などが生じても常に念じるべきです。

もし想像したら「想像している」もし考えたら「考えている」もし計画したら「計画している」もし何かを知ったなら「知っている」もし回想したら「回想している」もし楽しく感じたら「楽しい」もしうんざりしたら「うんざりしている」もし喜びを感じたら「喜んでいる」もし落胆したら「落胆している」このようにすべての心の動きを念じる事を『心随観』チッタヌパッサナーと言います。


私達がそれらの心の動きを念じないならば人または個人と心を同一視してしまいます。

私が想像している、考えている、計画している、仕度している、と思いがちです。

子どもの時から考え生活し、成長してきた「私が」というものがあると思っています。

実際はそのようなものは存在しません。


その代わりに続いて起こっていた心の動きがあるだけです。

ですからそれらの心の動きを念じ、それが何かと知らなくてはなりません。

心の動きが生じる度にすべて一つ一つ念じなくてはなりません。

そのように念じるとその心の動きは滅するでしょう。

そして腹部の膨らみ縮みを念じる事へ戻らなければなりません。


長時間座って瞑想していると体が強張ったり熱くなったりする感覚が生じてくるでしょう。

それも同じように注意深く念じなければなりません。


同様に痛み、苦しみ、疲労の感覚も念じていきます。

そのようなすべての感覚は『苦受』ドゥッカ・ヴェダナー「不満な感覚」といい、それを念じる事を『受随観』ヴェダナーヌパッサナーと言います。


念じる事をしなかったり手を抜いたりするとそれらの感覚が「私の身体が強張っている」「熱く感じる」「苦しい」「少し前まで大丈夫だったのに、今は楽ではない」「感覚で苦しい」とそれらの感覚をエゴ『自我』と間違って同一視してしまいます。


ただ次々と新しく生じる苦しい感覚があるだけで『我』と関わりのあるものは確かにありません。

それはちょうど電灯に光を灯すため続いて入って来る電気のようなものです。

毎回体で出会う不快な感覚との接触は次から次へと不快な感覚を生じさせます。

強張り、暑さ、痛みなどの感覚を注意深く熱心に念じるべきです。

瞑想し始めのヨギ(修行者)にとってそれらの感覚は姿勢を変えたいという心が生じそれが増しがちです。


その変えたい心も念じなければなりません。

その後ヨギは強張り暑さなどの感覚を念じることへ戻らなければなりません。

≪忍耐は涅槃へ導く≫という格言があります。

この格言は瞑想的な努力に最も適切なものです。

瞑想においては忍耐強くなければなりません。

もし強張り、暑さなどの感覚が生じた時、我慢できずに度々姿勢を変えたり動かしたりしたならば、『定』サマーディという集中は発達させることはできません。

もし『定』が発達しなければ洞察が起こりません。

そして『道』マッカ涅槃へ導く道『果』パラ『道』の結果、『涅槃』ニッパーナへ到達することはできません。

これが瞑想において忍耐が必要な理由です。

忍耐とは主として耐えるのが難しい身体の強張り、暑さ、痛みなどの不快な感覚に耐える事です。


そのような感覚が生じた時、すぐに瞑想姿勢を変え、苦しい感覚などを念じる事を諦めてはいけません。

ちょうど「強張り」「強張り」「暑さ」「暑さ」と念じ、忍耐強く念じなければなりません。

もし忍耐強く念じ続けているとそれらの種類の感覚は無くなるでしょう。

集中力が強く良くなった時はとても激しい痛みでさえ無くなるでしょう。

そして腹部の膨らみ縮みを念じる事へ戻ります。

もちろん長い間その感覚を念じても無くならない時、または耐えられなくなった時は姿勢を変えなければなりません。


はじめに「変えたい」「変えたい」と念じ、もし腕をあげたら「上げます」「上げます」と念じ、もし動かしたら「動きます」「動きます」と念じ、変化は「上げます」「上げます」「動きます」「動きます」「触れます」「触れます」と穏やかに念じなければなりません。

もし体が揺れたら「揺れている」「揺れている」足を持ち上げたら「持ち上げる」「持ち上げる」動かしたら「動きます」「動きます」下ろしたら「下ろします」「下ろします」と念じ、もう変えることがなく静止したらまた腹部の膨らみ縮みを念じる事へ戻ります。

先に来る念と続く念との間、先に来る定と続く定との間、先に来る智慧と続く智慧との間を断続させず連続させるべきです。

それだけがヨギの智慧の状態の段階が成熟し高くなるのを続いて起こさせるでしょう。

このような勢いの集まりがある時だけ『道』『果』『智』が発達させられます。

瞑想は二本の木を精力的に絶え間なく擦って火を起こすことに似ています。

そして必要な強烈な熱に達した時、火が生じます。

同じようにヴィパッサナー瞑想で念じる事は何の現象が生じたのであれ念じる事の間に少しの休みや間隔なしに絶え間なく続けて念じるべきです。



例えばもし痒い感覚が起こったらヨギはすぐ感覚を掻いて取り除かずに、耐えるのが難しい感覚と掻きたい欲求を除かずにただ念じるべきです。

もしこのように忍耐強く念じていれば大抵の痒みは無くなるでしょう。

その場合また腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻ります。

もし実際痒みが無くならなければもちろん掻くことによって取り除きます。

しかし先ず初めに掻きたい欲求を念じます。

感覚が取り除かれるプロセスすべての動き、特に「触れる」「引く」「押す」と掻く動きを念じるべきです。


その結果、腹部の膨らみ縮みに戻って念じます。

いつでも姿勢を変える時、変えさせる≪意思≫または≪欲求≫から念じ始めます。

そして例えば座る姿勢から「立ち上がる」「腕を上げる」「動かす」「伸ばす」などのような動きも念入りにすべての瞬間瞬間念じ続けます。

同時に複雑な動きを念じながら変えるべきです。

体が前に揺れる時、それを念じなさい。

立ち上がる時、体が軽くなって立ち上がります。

このように心を集中させ穏やかに「立ちます」「立ちます」と念じるべきです。

ヨギは弱い病人のように振舞うべきです。

普通に健康な人々は突然に早く楽に立ちます。

しかしいわゆる病人にとってはゆっくりと穏やかです。

同じように腰痛をもっている人が痛みを引き起こす腰痛が起こらないようにゆっくりと立つようにします。

そのようにヨギもまた瞑想します。

徐々にゆっくりと姿勢を変える事ただそれだけが≪注意深さ≫≪集中力≫≪洞察力≫を良くするでしょう。

それゆえに少しずつ穏やかな動きで始めなさい。


立ち上がる時,ヨギはゆっくりと病人のように行わなくてはならないし、同時に「立ちます」「立ちます」と念じます。

これだけではなく、たとえ目が見えても見えないように行動しなければなりません。

同じように耳で聞く時も瞑想中ヨギの興味は念じる事だけに向けます。

たとえ変った著しい事を見聞きしてもそれらが見えず聞こえないように振舞い注意深く念じなければなりません。

体を動かす時も腕や足の曲げ伸ばし、頭を垂れる、上げる時も弱い病人のように徐々に動かすべきです。

すべてのこれらの動きは徐々に動かすべきです。


座っている姿勢から立ち上がる時も「立ちます」「立ちます」と念じながら少しずつ立ち上がるべきです。

体をまっすぐに立つ時も「立ちます」「立ちます」と念じなさい。

あちこち見る時も「見えます」「見ます」と念じなさい。

歩くときは「右はこぶ」「左はこぶ」と一歩一歩念じなさい。

足の上げ下げのすべての動きを含む連続した動きに気付きなさい。

「右はこぶ」「左はこぶ」と各々の一歩がとられるたびに念じなさい。

これは速く歩く時の方法です。

長く歩く時や早く歩く時はこれで十分です。


ゆっくり歩く時や経行する時は「上げる」「運ぶ」「下す」と一歩を三つに分けて念じるべきです。


初めは足を「上げる」「下す」から念じ始めなさい。

(訳者註:上げる、下ろすは2段階目です)


足を上げる事を正しく気付かなければなりません。

同じように足を下ろす時に足の重さという感じに正しく気付くべきです。

歩く時は一歩一歩「右はこぶ」「左はこぶ」と念じて歩かなければなりません。

二日後にはこの念じる事は楽になるでしょう。


それから「上げる」「運ぶ」「下す」と三つに分けて念じることに進みます。

初めは速く歩く時は「右はこぶ」「左はこぶ」ゆっくり歩く時は「上げる」「下す」と一つか二つの動きを念じるだけで十分です。


このように歩いている時に座りたくなったら「座りたい」「座りたい」と念じます。

実際に座る時には体の重い感じに集中して念じなさい。

座った時に腕や脚を整える事も含むすべての動きを念じなさい。

このような動きがなくただ不動の時は腹部の膨らみ縮みを念じなさい。

そのように念じている間に手足の強張りや体のどのような部分の熱さの感覚も続けて念じます。


そして膨らみ縮みに戻ります。

もしこのように念じている間に横になりたいと欲したら「横になりたい」と念じ横になる時の腕や足の動きも念じなさい。

腕を上げる動き、肘を床に休める動き、体の揺れ、足を伸ばす、ゆっくり横になる時の身体を整える動き、それらすべてをすべての動きを念じるべきです。

このように横になる事を念じる事は重要です。

この横になるという動きの中で『道智』マッガニャーナ『果智』パラニャーナという明らかな智慧を得る事ができます。


いつ何時でも『定』と『智』が強くなった時、悟りの智慧が来ることがあり得ます。

一回の腕の曲げ伸ばしの中でも来ることがあり得ます。


アーナンダ尊者はこのように阿羅漢果を得ました。

彼は第一回仏典結集の前、夜通しで阿羅漢果を得るために精力的に努力していました。

彼は「右はこぶ」「左はこぶ」「上げる」「運ぶ」「下す」と体の気付きの瞑想(カーヤガタサティ)として知られるヴィパッサナー瞑想からの気付きを歩く心理的欲求と肉体的動きが起こる度に念じ夜中じゅう実践していました。

夜明け近くまで続けたのですが、まだ阿羅漢果に達する事ができませんでした。

彼は歩く瞑想の実践が過剰になりすぎたと気づき『定』と『努力』のバランスをとるために横になっての実践を少しの間やるべきだと彼の部屋に入りました。

寝椅子に座り、そして横たわろうとしました。

そうしながら「横たわります」「横たわります」と念じていく間、すぐに阿羅漢果を得ました。

横たわる前は、彼は『預流道果』邪見と疑を取り除いた最初の悟りでした。

彼は続いて瞑想し『一来道果』残りの煩悩を弱める二段階目、『不還道果』五欲に対する渇愛、すべての怒りを取り除いた三段階目、『阿羅漢道果』すべての煩悩を取り除いた完全な聖者へとほんの少しの間で達しました。


まさにアーナンダ尊者が阿羅漢果に達した例を思いなさい。

そのような達成は長い時は必要なく、ほんの一瞬で来ることがあり得ます。

それはヨギが非常に勤勉に念じるべき理由です。


「この少しの過程は大したことではない」と念じる事を和らげるべきではありません。

横たわる事や腕や足を整える事を含むすべての動きを注意深く絶え間なく念じるべきです。

もし何の身体の動きもなく静止しているならまた腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻ります。

たとえ夜遅くなって寝る時間になっても瞑想を諦めて寝るべきではありません。

本当に真剣な精力的なヨギはまるでまったく眠りなしで過ごすかのように気付きを実勢すべきです。


眠りに落ちるまで瞑想を実践するべきです。

もし瞑想をよく制御する事が出来るならば眠りに落ちる事はないでしょう。

また別の場合、眠気に襲われ眠りに落ちるでしょう。


もし眠い時は「眠気」「眠気」もしまぶたが下がってきたら「下がります」「下がります」重く鈍くなってきたら「重い」「重い」目が疼いてきたら「疼く」「疼く」と念じるべきです。

このように念じていると眠気が通り過ぎるでしょう。

そして目はまたはっきりとなるでしょう。

それをまた「はっきりした」「はっきりした」と念じ、また腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻ります。

どんなに忍耐強いヨギが瞑想を続けても眠気が間に入り眠ってしまうでしょう。

眠りに落ちる事は難しくなく実は簡単です。

もし横になって瞑想していると次第に眠気がきて結局眠ってしまうでしょう。

そういう理由で初心者は横になっての瞑想をあまりすべきではありません。

座るか歩く姿勢での瞑想を多くすべきです。

しかし夜遅くなり寝る時間になれば横になって腹部の膨らみ縮みを念じるべきです、すると自然に眠りに落ちるでしょう。

眠っている時はヨギにとっての休止時間です。

しかし本当に真剣なヨギは四時間ほどの睡眠時間に限るべきです。

これは釈尊に深夜時に許されたものです。

四時間の睡眠で十分です。

もし初心者が四時間は健康のために十分でないと思うならば五、六時間へと延ばしてもよいでしょう。

六時間は明らかに健康にとって十分です。



ヨギは目覚めるとすぐに再び念じ始めるべきです。

『道』『果』『智』に達する事に本当に熱心なヨギはただ睡眠中の時だけ瞑想の努力を休めるべきです。

それ以外は目覚めた瞬間から休みなく続けて念じるべきです。

目覚めるや否や目覚めた心の状態を「目覚めている」「目覚めている」と念じます。

もしそれができない場合は腹部の膨らみ縮みから念じるべきです。

もしベッドから起き上がろうと思ったら「起きようと思っている」「起きようと思っている」と念じるべきです。

そして腕や足を整える時の変える動きも続けて念じるべきです。

もし頭を上げる時は「上げる」「上げる」と念じます。

座る時は「座ります」「座ります」と念じます。

腕や足を動かすどんな動きであろうとすべて念じるべきです。

もしそのような動きがなく静かに座っているならば腹部の膨らみ縮みを念じる事に戻るべきです。

また顔を洗う時も風呂に入る時も念じるべきです。

それらの動きはいくらか早く行うので可能な限り念じるべきです。

服を着替えたりベッドを整えたりドアの開閉などすべて可能な限り念入りに念じるべきです。

食事の時テーブルを見たら「見えます」「見ます」「見えます」「見ます」と念じるべきです。


食べ物へ手を伸ばし、触れ、集め、整え、掴み、口へ運ぶ、そして頭を垂れ一口の食べ物を口の中に入れ手を下ろしまた頭を上げそれらすべての動きを念じるべきです。

この念じ方はミャンマーの食事の念じ方です。

フォークやスプーン、箸を使うときは適当な方法で念じるべきです。

食べ物を噛む時は「噛みます」「噛みます」と、味が分かったら「分かります」「分かります」と念じるべきです。

食べ物を賞味し、飲み込み、食べ物がのどを通って行くところまでのすべての出来事を念じるべきです。

これが次々に一口ずつ食事をとる時の念じ方です。

スープを飲む時も「手を伸ばします」「スプーンを取る」「掬う」などそれらすべてを念じるべきです。

食事の時は気付き念じる事が多くあるのでいくらか難しいところです。

初心者にとっては念じるべきいくらかの事を省くかもしれませんがすべて念じる決心をすべきです。

もちろんいくらかの見落としや省略を避ける事が出来ないかもしれませんが『定』が強くなってきた時、それらすべての出来事を念入りに念じる事が出来るでしょう。

さて、多くの念じる事を述べてきました。

しかし要約はほんのいくらか念じる事です。

早く歩く時は「右はこぶ」「左はこぶ」ゆっくり歩く時は「上げる」「下ろす」と念じます。

静かに座っている時はただ腹部の膨らみ縮みを念じます。

横になって特別に念じる事がなければ同じように念じなさい。

このように念じている間にもし心が彷徨ったら生じた心の動きを念じなさい。

そして腹部の膨らみ縮みに戻ります。

強張り、痛み、疼き、痒みなどの感覚が生じたらそれもまた念じて下さい。

そして腹部の膨らみ縮に戻ります。

このように念じ続けているとこのような現象をどんどん念じる事が出来るようになるでしょう、初めのうちは心が大きく彷徨い多くの事を省いてしまうでしょう。

しかし落胆すべきではありません、初心者はみな同じ困難に出会うでしょう。

しかし修行を続けているうちに心が彷徨う度に気付き、結局心は彷徨わなくなるでしょう。

その時心は腹部の膨らみ縮みのような注意の対象に釘付けにされ、気付きの行為がほとんど同時に起こるでしょう。

言い換えれば腹部の膨らみと念じる行為が同時に起こり、腹部の縮みも同様に起こります。

肉体的注意の対象と心理的念じる行為は一対で生じます。

この現象の中で人や個人というものはありません。


ただ肉体的注意の対象と心理的念じる行為が一対となって生じるだけです。

ヨギはそれらの現象を実際に個人的に経験するでしょう。

腹部の膨らみ縮みを念じている間、腹部の膨らみと縮みが肉体的現象。

それを念じている心理的現象と区別できるようになります。

このようにヨギは肉体的現象と心理的現象は一対で同時に生じる事を明確にはっきりと知るでしょう。


このように念じる度にヨギは気付き、また注意の対象である物質的現象とそれを念じる心理的現象だけがあるとはっきりと知る事が出来るでしょう。

この識別する智慧をナーマ・ルーパ・パリッチェーダ・ニャーナ『名色分離智』と呼び、ヴィパッサナー智の初めの智慧です。


この智慧を正しく得る事が重要です。

ヨギが続けて念じていると原因と結果を分けて知るパッチャヤー・パリッハ・ニャーナ『縁説受智』と呼ばれている智慧が続くでしょう。

ヨギが続けて念じている時、短い間に一切の生じた物が滅してしまうと知るでしょう。

瞑想していない一般の人々は子供から大人へと人生を通して続いている物質的現象と心理的現象を仮定します。


実はそうではありません、永遠に続く現象はありません。

すべての現象は瞬きする間ですら続かず、とても素早く生じては滅していきます。

ヨギは念じ続けていると彼自身の中で知るでしょう。

そしてそのようなすべての現象は、無常だと確信するに至るでしょう。

それを『無常観察智』アニッチャ・ヌパサナー・ニャーナと呼びます。


この智慧はすべての無常なるものは苦であるという『苦観察智』ドゥッカ・ヌパサナー・ニャーナを悟ることへと続くでしょう。


ヨギはまた自身の中にあらゆる種類の困難と出会いそれはまるで苦の集まりであるように知ることができます。

これもまた『苦観察智』です。


次にすべての心理的、肉体的現象は誰の意志でもなく、誰の支配を受けているのでもなくそれ自身の因縁によって生じている事を確信するに至るでしょう。

それらは個人や自我という実態を構成するわけではありません。

これが『無我観察智』アナッタ・ヌパサナー・ニャーナの理解です。

ヨギが続けて瞑想している時すべての現象は「無常」「苦」「無我」としっかりと悟りが生じる時、涅槃へ達するでしょう。


すべての過去の仏陀達、阿羅漢達、聖者達はまさにこの道に従って涅槃を実現しました。

すべてのヨギ達は今、「道智」「果智」「涅槃」に達するための願いと彼らの『波羅蜜』パーラミー「徳の完成」が熟する事によって『気付きの確立の道』サティ・パターナの上に立っていると知るべきです。


以前決して経験することのなかった諸仏、阿羅漢達、聖者達が経験した聖なる「定」と「智」を経験する前途の望みを喜ぶべきです。

諸仏、阿羅漢達、聖者達が経験した「道智」「果智」「涅槃」の法を彼ら自身でほどなく経験するでしょう。


実際は1ヶ月、20日、15日の間の瞑想実践の経験で実現するでしょう。

例外として特別に波羅蜜がある人は7日間の中でさえ経験するでしょう。

それゆえに、上に述べた時間内にそのような法に達する事が出来るよう信頼し『五蘊』「色」「受」「相」「行」「識」に我があると思う『有身見』サッカヤ・ディッティと仏・法・僧に対する『疑い』ビチキッチャーから自由になり、低い世界、偽善地、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅への輪廻からの危険から救われるよう信頼すべきです。


この信頼、安心によって瞑想を続けるべきです。

皆様が瞑想をよく実践でき諸仏、阿羅漢達、聖者達が経験した涅槃に早く達せられますように。


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ミャンマーで修行中の藤井(ウ・スジャータ)さんがテープ起しをしてくれました。

ありがとうございます。